「思いのまま」とは
湯島天神は梅祭り。
御神輿がちょうどお目見えしたところだった。
先日、訪れた時に撮影した時には、こんな虹が出た。
なにか「キラリ」としたものを感じて1枚目、2枚目と。
ちょうど、泉鏡花の筆塚のところ。
その時にはまだ、梅が咲いていなかったけれど、今回は綺麗に咲いていた。
香りも、その姿も、梅の花が咲くとほっとする。
寒い冬が終わるのだなぁ!と顔がほころぶ。
実はすごく寒くて、持っている中で一番温かいコートを着て行った。
冷たい雨が降っていた。
梅の木の根元に、何か・・・。
『思いのまま』と書いてあるのを発見!
いいなあ。
思いのまま、か。
思いのまま、上手くいくよ!と太鼓判を押されたようだ。
『思いのまま』という品種の梅の木は、梅の方が「思いのまま」に咲き分けるという意味で命名されたようだ。
「紅色」「淡桃色」「白色」「斑入り」「絞り」の5色に咲き分けるのだという。
品種改良の際に思うような色の花が出てこず、改良を手がけた園芸家にとっては「思いのまま」にならず、梅にとっては「思いのまま」に花を咲かせることから命名されたものだとか。
むしろ、素敵に思える。
「思いのままにならないこと」が「思いのままになる」と捉えれば、ありがたい縁起物となるとのこと。
強く思うことが、すぐにその通りになるとは限らないけれど、努力は裏切らないと思っている。
違う方向に行ってしまって、強制終了がかかってしまうことも何度かあった。
そっちじゃないよ!と。
しかし、後から考えると、そこで止めてくださってありがとう、と見えない何かに感謝をしたい気持ちになる。
一度(だけではない気もする)、違う方向へ行くこと自体が、私の人生に仕組まれていたことのようにも思えるから不思議だ。
次に進むべき道に必要な要素が、無駄だったかも?という努力の中に含まれていたものだ。
それは、今も変わらない。
結構な廻り道をして今に至っていて、今でさえも、廻り道の途中であるように思える。
辿り着く先はどこなのかは、わからないまま。
『思いのまま』動いて、流れていく先も楽しみだ。
忘れてはいけないのは、思う方向に流れていくということだ。
ポジティブな方向を目指さないとね。
その昔、私自身が受験生の時に湯島天神を訪れて、御神籤で凶を引いた。
そして、木彫りの鷽を買ったのを思い出した。
うそ。
災いをすべてうそに変え、良いことにできるという木彫りのお守り。
とぼけた感じで可愛い、小さい鷽鳥。
なんとか合格をいただいたのだった。
それから、冷たい雨の中、旧岩崎邸庭園に足を伸ばした。
学生時代、いつも一緒にいた友人とデパートの額売り場を通りかかった時のことだった。
「あれ、私の先祖。」
と指さしたのが、賞状の見本に刷られた岩崎弥太郎の文字だった。
冗談だと思ったら、本当だった。
彼女が「かあさん」と呼んでいるお母様は岩崎家の末裔であった。
それにまつわる数々の話は、私のような一般人には興味深く面白いことばかりだった。
普通の生活をしており、気取ったところがまるでない友人とは、今も尚、長く繋がっている。
建物には靴を脱いで入るので寒い日には人が少なく、ゆっくりとミントンの壁紙や、婦人用客室のパウダーピンクの扉の意匠などを見ることができた。
ジョサイア・コンドルの設計で、明治二十九年に完成した、17世紀英国のジャコビアン洋式の装飾。
イギリス・ルネッサンス様式やイスラム風のモチーフが取り入れられている。
昔、誰から聞いたのかも忘れたし、本当かどうかわからないけれど、神田明神の龍と湯島天神の龍を結んだその先に、この邸があるのだと。
本当だったら、ちょっと浪漫がある。