月とザンザレリ
四季を問わず、夜、月を見ていることが多い。
月光浴が好きだ。
白い光、静寂・・・に包まれながら、
ただ、座っている。
たまに雲で隠れて、また少しずつ顔を出す月。
霞がかかったような幻想的な月。
やさしく慰められるような月の光を見ている。
どうしようもない気持ちを抱えた自分を浄化してくれるような気がする。
月を眺めていると、悲しくもないのに
涙が流れることがある。
そう呟いた友人は、とても感覚の鋭い人だった。
前世?
夢なのか・・・ビジョンなのか?
どちらにしても、興味深い。
例えフィクションであったとしても。
目を閉じると、私にも、その姿が想像できた。
私は、足元まで長さのある白い緩みのある服を着て、後ろ向きで立っていた。
亜麻色の髪を後ろで一つに三つ編みにして、
大きな窓から、月を見て静かに泣いていた。
どこに帰りたいのか・・・。故郷に。
戦乱のヨーロッパの地で、助け出してくれた人の屋敷にいるようだ。
甲冑を着たその人の馬に乗せられて、ここまで連れて来られた。
何も食べていないように見える。
何を勧められても、首を横に振る。
それでも、助けてくれた人は、ただただ黙って、
穏やかに動き出すのを待ってくれていたようだった。
器に入ったスープを一匙、食べたように思う。
窓辺から離れて、動き出す。
月明かりの中で、匙を口に運ぶ。
温かいスープ。
そして、生気を取り戻したようだ。
白っぽかった唇が、桜色に戻り、こちらを向いてベッドに腰掛けているのが見える。
やがて、助けてくれた人は、再び甲冑を着けて戦いに出ていく。
そして、傷ついて帰った時、自分がされたようにスープを匙で飲ませて介抱したのだった。
しかし、友人のいう前世の私は、元気になった命の恩人を庇い、矢が背中に。
そして、息絶えるのだった。
顔のそばには、粒子の細かい赤土を感じた。
空の上から、自分の横たわる棺の横に、命の恩人が跪いて泣いているのが見える。
「どうか、悲しまないでください。私は空にいますから。」
その言葉を、空からささやく。
もしかしたら、言葉は風に流されてしまったかもしれない。
届いたかどうかは、わからない。
ユングやエドガー・ケイシーの勉強をされた方に話してみた。
確かに、ある。
自分が引けば、話が収まると思うと、人知れず黙っていなくなるようなところが、
私にはある。
今となっては、それがエゴだということに、少なからず気づいていた。
そして今度は、大きな気づきとして、私の心の中心に刺さった。
あることが頭に浮かんだ。
「もしも、私が死んでしまったら・・・。」
こちらは冗談のつもりで発した言葉だったが、友人にとても怒られたことがある。
「死ぬ、という言葉を、二度と言わないでほしい!」
私自身は、両親が早めに他界したせいもあり、
人はいつか死ぬのだ、という思いが頭の片隅にいつもある。
怖さを感じないといえば嘘になるが、必然的に起こること。
何度も謝らなければ許してくれないほどの勢いで、
本気で怒られることに驚いたのだった。
今だけの感情で怒られている気がしなかった。
そういうこともあるのか。
もし、そうだとしたら、生き方として控えめに引き下がってばかりいるのではなく、今からでも自分らしい一歩を踏み出さなければ、命の恩人も報われないのだろう。
私は、月に願い事はしない。
ただ、見守っていてほしい、と祈る。
どんな時代も変わらず空にいて、地球を照らしてきた月は、
その満ち欠けの間に、人を見守り、救ってもきたのだろう。
その満ち欠けのリズムで、海に満干があり、人が生まれて死んでいく。
かつて、一匙飲んだスープはどんなものだったのか。
見た目は、中世のZanzarelli(ザンザレリ)というスープのような、
ある日の満月のような、黄色であったように思われる。
下記資料を参考に調理してみた。スープの写真はやはり月を思わせる。
書くこと、描くことを続けていきたいと思います。