ボヘミアガラスの歴史
2024年の夏、ガラスの歴史をさらに深く知るためにチェコのヤブロネツとヴェネチアのムラーノ島を訪れました。どちらも、長い歴史と伝統を持つガラス工芸の町で、ヤブロネツではボヘミアガラスが、ムラーノ島ではヴェネチアガラスがつくられています。
私たちはこれまで、フィンランドガラスのリサーチを継続的に行ってきました。フィンランドは戦後のガラスデザインにおいて世界的な成功を収めましたが、その一方で「ガラス」そのものの歴史調査は他の地域に比べると浅く、考古学的な視点からフィンランドガラスの実態を捉えることは未だできていません(フィンランド国立ガラス美術館のウェブサイトには、「300年のフィンランドガラス産業の歴史」と記載されています)。
今回は、それぞれの町でのリサーチに基づいてボヘミアガラスとヴェネチアガラスの歴史を記事にまとめ、フィンランドガラスへの影響や関連を探ってみようと思います。こちらの記事ではボヘミアガラスについてを、別の記事(後日公開)でヴェネチアガラスについてを整理します。また、過去にはフィンランドガラスについても記事にまとめていますので、よければ併せてご覧ください。
表記について
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ムラーノ島でつくられるガラスはムラーノガラスと呼ばれたり、ガラスの分類には類似する表記(ヴェネチアングラス/ベネチアングラスやボヘミアンガラス/チェコガラスなど)がありますが、本記事では便宜上、「ヴェネチアガラス」「ボヘミアガラス」と表記することとします。それぞれの地域で生まれた伝統的なガラス工芸、という広い領域を示す言葉として使用しています。
写真と情報について
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本記事に掲載している写真はすべて現地の街や博物館で撮影したものです。注釈のない写真についてはヤブロネツのガラス&ジュエリー博物館の展示より、具体的な年代などの情報についてはガラス&ジュエリー博物館の展示キャプション及び展示図録から引用しています。
00. ボヘミア地方とガラス工芸
ガラス工芸の町:ヤブロネツ・ナド・ニソウ
ヤブロネツ・ナド・ニソウ(Jablonec nad Nisou)は、チェコ北部のイゼラ山地の麓に位置しており、ガラス工芸の長い伝統と歴史を持つ町です。町はボヘミア地方に属しており、近郊の山脈では水や木、鉱石などガラス制作に必要な資源が豊富に採掘できました。この地で「ボヘミアガラス」の発展した一因は、この地理的な有利にあります。数あるガラス工芸の中でも、この町は特にボタンやビーズ、ジュエリーの分野で豊かな文化を持っています。
ヤブロネツの町を歩いていると、そこが山の麓であることがよくわかります。東西南北どちらに向かって歩いても坂道で、スーツケースを運ぶのは一苦労。歴史的な街並みの中には、ガラス産業で財を成したであろう大きな邸宅があちらこちらに見られます。
ガラス&ジュエリー博物館
ボヘミアガラスの保存と展示をしているのが、町の中心部にあるガラス&ジュエリー博物館。ウェブサイトによると、「700年の歴史を持つボヘミアガラス」がコレクションされていると書かれています。アール・ヌーヴォー様式の旧館(1903-1923年に建設)と、宝石のような現代的な装いの新館(2020年に増築)があり、過去から現代までを網羅した展示がされています。
01. ボヘミアガラスの歴史
[紀元前] ガラスのはじまり
人類がつくりだした最古のガラスのひとつとして「シードビーズ」が挙げられます。シードビーズとは種のように小さなビーズのことで、紀元前に地中海沿岸でつくられたビーズは物々交換によって中央ヨーロッパまで到達していたそうです。いわゆるガラスの器、中空の吹きガラスは紀元前1世紀に古代シリアで発明され、やがて地中海全域、そして西ヨーロッパのローマ帝国までも広がっていきました。
[14世紀] ボヘミアガラスのはじまり
ボヘミアガラスのはじまりは、14世紀頃と言われています。ガラス&ジュエリー博物館の展示では1376年頃と示されていたので、「700年の歴史を持つボヘミアガラス」という言葉はここからきているようです。この時代には、ガラスの器や教会などのステンドグラス、ロザリオ(カトリック教会でお祈りに使う数珠状の用具)のための小さなシードビーズがつくられていました。
[16-18世紀] カリガラスの発明
16世紀頃のボヘミアの貴族がルネサンス様式を好んでいたため、透明なゴブレットはボヘミア地方を含むヨーロッパの中心部で人気となります。それまで、その様式のガラス品は主にヴェネチアのムラーノ島でつくられていましたが、貴族の需要に応えるよう次第にボヘミア地方にも職人が移り住むようになり、製造技術も各地へ伝わりました。芸術の黄金時代とも言われるルネサンス。その影響力の大きさがうかがえます。
ヴェネチアガラスの模倣から脱却し、「ボヘミアガラス」としての確かなアイデンティティが確立されたのは17世紀の終わり頃。ソーダ石灰を用いるヴェネチアガラスに対抗するように、森に生えるブナの木灰に含まれる炭酸カルシウムを用いた「カリガラス」が発明されます。カリガラスの特徴は、硬度が高く、透明であること。そのため、ヴェネチア式のエナメル彩ではなく、繊細なカット加工による装飾がますます発展していきました。
ヴェネチアガラスは柔らかい状態で加工(ホットワーク)をするため粘土のように自由な造形が個性となり、硬いボヘミアグラスは彫刻的な加工(コールドワーク)をするため宝石のような輝きが個性となりました。「足し算」と「引き算」の違いのようだと言えます。
[19-20世紀] ボヘミアガラスの繁栄
ボヘミア地方のカリガラスは16-18世紀にかけて世界的な人気を獲得し、国外貿易においても成功を収めます。19世紀になると色ガラスを用いたより複雑な装飾もされるようになりました。バロック様式やネオ・ルネッサンス様式、ロココ様式やシンプルですっきりとした装飾まで、様式が二転三転し、さまざまな表現の開拓と衰退が繰り返された時代です。ちなみに、ボヘミアガラスを代表するブランド「MOSER / モーゼル」が誕生したのが1857年。その歴史は、現代までつづいています。
この時代のボヘミアガラスのエングレーヴィング(彫刻による装飾)は、最も完成されたもののひとつして高く評価されており、その多くはボヘミア地域の職人の高度な宝石彫刻技術によるものです。
[20世紀]現代、新しい芸術へ
1900年のパリ万博でのアール・ヌーヴォー(フランス語で新しい芸術を意味する)の成功は19世紀を象徴する出来事となり、言葉の通り、20世紀の芸術は新しい世界へと向かってゆきました。装飾主義から機能主義へ、そして多様な現代デザインへと続く一連の流れは、西洋美術の歴史とも共通・共鳴しています。
チェコスロバキア独立(1918年)後の第二次世界大戦では、国境付近のガラス工場はその大部分を軍用品の生産にシフトしますが、それでも芸術的価値のあるガラス工芸品は生み出されていました。その後も、政治的理由でガラス工場が国営化されるなど、チェコのガラス産業は大きな変化を迎えることとなりますが、ミラノトリエンナーレ(1957年/1960年)やブリュッセル万博(1958年)の成功によって、ボヘミアガラスは確かな地位を獲得しました。
現代のボヘミアガラスについては省略しますが、その豊かな歴史を継承すべく、チェコ各地では高い水準でのガラス工芸の製造と教育が続いているようです。
02. 小さな芸術品
「700年の歴史を持つボヘミアガラス」には、前章でご紹介したゴブレットやアートピースのみならず、シードビーズのような小さな工芸品も含まれています。宝石に代わる模倣宝石やそれを用いたガラスジュエリーは18世紀末からイゼラ山脈帯(ボヘミア地域)で発展し、現在でもこの地域の重要な産業のひとつでありつづけています。
美術館/博物館のショーケースに閉じ込められたゴブレットなどの「ボヘミアガラス」は貴族のための芸術品という側面を持ち、ヤブロネツの工房や家庭に眠るボタンやビーズなどの「ボヘミアガラス」は大衆のための日用品という側面を持ちます。もちろん、それらの間に明確な境界/分断があったわけではないのでしょうが、比較的低いコストで量産が可能なボタンやビーズは結果としてこの地の市民文化と深く関わりを持つこととなります。
そして、このヤブロネツという町が世界的に知られるきっかけとなったのも、ボタンやビーズ、ジュエリーなどの“小さな”芸術品によるものでした。
地理と資源
ヤブロネツを含むボヘミア地方の山脈帯には、ガラスの製造において地の利があります。海に浮かぶヴェネチアには鉱山も森もないためガラスに必要な素材の調達は輸入に頼っていましたが、ボヘミア地方の山脈には豊かな資源がありました。「ボヘミアガラス」のアイデンティティとなったカリガラスも、森に生えるブナの木灰を原料としていたり、伝統的な鉱石加工の技術を用いていたりと、極めて土着的な方法でガラスの歴史は紡がれてきたのです。
手仕事
ヤブロネツでは、ガラスボタンやガラスジュエリーの多くが家族経営の小さな工房でつくられています。店と工房が一体となっていることも多く、ガラスビーズ屋を訪れると、一角の小さな制作部屋に卓上バーナーやガラスの素材が置かれているのをよく目にしました。地理的な有利に加えて、小さなガラス工芸の設備/販売のハードルの低さは、この町のガラスボタン&ジュエリーの文化的/商業的発展における重要な要素のひとつでした(例えば大きな設備が必要だったり、より高価な取引を求められていたら、製造の中心は資本や権力の集まる都市部になっていたかもしれません)。
ボタンやジュエリーの基本的な材料は、主にカリと鉛ガラスを溶かしてつくられる様々な種類のスティック/チューブです。棒状のガラス素材をバーナーで溶かしながら加工を行います。
ガラスボタン
「ヤブロネツはガラスボタンの町」と言われるように、ガラスボタンの製造はこの地域における重要な産業のひとつです。アイレット付きの金属製のプレスボタンが1830年代に初めてこの地方で生産され、後にガラス製のボタンもつくられるようになりました。しかし、現代におけるガラスボタン産業は、プラスチック製品との競争や後継者不足などにより、衰退の道を辿っています。
ガラスビーズ/ジュエリー
ガラスボタンと並んで重要な産業のひとつが、ガラスビーズです。この地で長くつづく鉱石/宝石の加工技術を活かした美しいガラスビーズやそれらを用いたガラスジュエリーの成功が、ヤブロネツという町を世界的に有名にしました。ガラスビーズは製造方法によって、プレスビーズ / カットビーズ / ランプワーク / 吹きガラス / イミテーションパール / シードビーズなどに分類されます。
ガラスビーズの歴史において、非常に重要だったのがヨーロッパとアフリカとの関係性です。ヨーロッパからの輸入品として非常に高価かつ希少だったガラスビーズ/ジュエリーは、アフリカの王や貴族の富・権力を象徴するものとされていました。そのため、ヴェネチアやボヘミアでつくられた良質なガラスビーズ/ジュエリーはアフリカの金資源や香辛料と交換されてきた歴史があります。奴隷貿易や植民地化など、ヨーロッパとアフリカの貿易の歴史は複雑かつ暗い側面をも内包していますが、ガラスビーズ/ジュエリーがその交換の中心にあったこと、そしてそれらがヨーロッパのガラス産業の繁栄とアフリカのジュエリー文化の形成を同時に担っていたことはガラス史における重要な出来事のひとつと言えます。
メタルジュエリー
金属、もしくは金属とガラスでできた宝飾品は、メタルジュエリーと呼ばれます。19世紀後半のヤブロネツでは、メタルジュエリーが産業の主要分野となっていました。
メダル・コイン
ガラス加工だけでなく金属加工の技術も非常に優れていたヤブロネツでは、1993年に造幣局がつくられ、現在に至るまでチェコ共和国のすべての流通貨幣や記念貨幣を製造しています。
また、ボヘミア地方では銀がよく取れていたこともあり、かつては「Joachimsthaler」という銀貨が貨幣として用いられていました。銀貨は「Thaler/ターラー」と省略された名前でヨーロッパへ普及し、その言葉はアメリカにまで到達します。そして、その「ターラー」こそがDollar/ドルの語源となった……という説があります。気になる方は調べてみてください。
03. おわりに
卓越した技術で幅広い分野の芸術を生み出してきたチェコ。その技術力の高さゆえに、チェコの人々は黄金の手を持つとも言われています。プラハの街を歩くと、小さな石をひとつひとつ組み合わせて道をつくる職人の姿があちらこちらに目に入り、その丁寧な仕事ひとつとってみても「黄金の手」と呼ばれる理由を確かに感じ取ることができます。
「歴史」には、大きな視点と小さな視点があります。広く語られる、あるいは教科書に掲載されるのは基本的には大きな視点の方で、それは時に政治や社会と深く関わりながら“描かれる”歴史です。対して、小さな視点による歴史には、いち市民の生活や語られることのない匿名的な物語が含まれています。その点、歴史とは常に複雑で、時に曖昧なものです。
今回、チェコのプラハとヤブロネツへの訪問を通じてボヘミアガラスのリサーチを行いましたが、その歴史も非常に複雑だと感じました。分かりやすくまとめるならば、ヴェネチアからの影響→技術の輸入→カリグラスの発明→ボヘミアガラスの繁栄ということになりますが、その歴史の裏側には記述されない多くの出来事があるはずです。例えば、山と川に囲まれた豊かな地理のこと、ボヘミア地域一帯の伝統的な加工技術のこと、歴史に残らなかったガラスの存在のこと、西洋とアフリカのガラスを介したつながりのこと、など。今回まとめた歴史は、あくまでも表層的なもので、ひとつの側面に過ぎないと言うことをここに記しておきます。
冒頭の記述に従ってフィンランドガラスへの関連を考察してみると、それは「土地と民族」に行き着きます。チェコもフィンランドも、ガラス製造に必要な木や水を潤沢に蓄える地理的な有利があり、支配国からの独立という民族意識を伴う歴史的背景を共通して持っています。チェコではヴェネチア式から脱却してカリグラスによる「ボヘミアガラス」を生み出し、さらには革命によって自らの国と自由、そして民主主義を手に入れました。フィンランドも、長らく支配されていたロシアからの独立を20世紀に実現し、スウェーデン/ドイツ式のプレスガラスから脱却してフィンランドガラスという文化的なアイデンティティを獲得しました。時代こそ違いますが、「この土地で、自らの手でつくるんだ」「自分たちで社会を変えていくんだ」というある種の反骨精神が両国には共通してあったのです。
ガラスの意匠や装飾に関しては、その時代の様式や社会から影響が大きいので直接的な比較はできません。いわゆるフィンランドデザインが1930年以降につくられたのに対して、ボヘミアガラスは1400年頃から様々な様式でつくられてきたためです。時代ごとの比較をするのためには、1900年以前のフィンランドガラスも“発掘”していかなければなりません(それを実現するには、スウェーデンやロシアの考古学博物館を訪ねる必要がありそうですが)。
ただ、ひとつ言えることがあるとするならば、“後続”のフィンランドガラスはヴェネチアやボヘミアの長いガラスの歴史から技術を学ぶことができた、と言うことです。王族文化のないフィンランドでは、思想的にも、様式的にも比較的自由な社会があったので、世界の歴史から学び、自国の歴史を上書きしていくことができました。そのため、フィンランドデザイン(ガラス・陶器を問わず)は、共通した自然観を伴いつつもその表現手法は作家によって様々で、例えばアール・ヌーヴォーの影響を受けた器やアフリカの原初性を感じる器、さらにはムラーノ島の伝統技術を応用したガラス品も存在しています。
フィンランドからボヘミアへと、ガラスの歴史を少しずつ少しずつ辿ってきましたが、さらにその先へと進むためには水の都ヴェネチアを通らなければならないようです。
次の記事では、ヴェネチアのムラーノ島でのリサーチをもとに、ガラスの歴史をさらに深掘りしていこうと思います。写真と情報の整理を着々と進めていますので、そちらもまた読んでいただけましたら幸いです。
長い記事をご覧いただき、ありがとうございました。