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自死遺族にこれからの人生はあるのか
生き方が難しい。
るりが自死してから1年4ヶ月。日に日に、愛しい我が子が本当に帰ってこないという悲しい現実と、しかも自死であるということの苦しさが、ずしりと重く重く感じられるようになってきた。
私はどこを目指して、どうやって生きていったらいいんだろう。わからなくなってしまった。
自責の念にずっとチクチクと苛まれている。朝起きた瞬間から眠りに落ちる時まで、ずっとるりに対する申し訳ない気持ち、さみしさ、罪の意識が頭を離れなくて、何も楽しいと思えない。楽しんではいけないのだという自罰感情もあるのだろう。自分への信頼は地に堕ちた。この浅はかで愚かな罪人め、という自分の声が、絶え間なく自分を打ち砕く。
私が知り合った自死遺族は、皆、同じような感情を抱えて苦しんでいた。自死遺族は、生きていくのが本当に難しい。大切な人を亡くし、さらに自分自身も失う。住む世界が変わってしまって、友達にもほとんど会えなくなった。孤独にひたすら耐えるしかない人生が果てしなく続くのかと思うと、重苦しい。
私はるりが自死して、初めて、生きているのが苦しすぎるという気持ちを味わうようになった。るりを苦しめた病的な希死念慮の比ではないとは思うけれども、それでも鬱陶しい気持ちに付き纏われている。
そして、何をするにも力が出ない。ずっとネガティブな感情に囚われ、自分の中に毒素をばら撒いているような感じなので、仕方がないのかもしれないけれど。
毎日、運動したり、仕事で別のことに頭を使ったりして、なんとかやり過ごしている。でも、もし寿命まで生きてしまうとすると、まだ40年近くもある。死ぬまで、長すぎる。自分を誤魔化してやり過ごして生きていくだけでは、もたない。
悶々としていたが、今日、たまたま一つの言葉に出会った。
「これまでの人生が、これからの人生を決める」と考える人が多い。心底、それは間違いだと思いますね。そうではない、「これからの人生が、これまでの人生を決める」のです。今日の、いま、ここからの人生が、これまでの人生に意味を与えるということです。
— 山口周 (@shu_yamaguchi) December 7, 2019
ハッとさせられた。
もし私がこれからずっと、自死遺族はもう幸せになれないと、鬱々として自分を呪って生きていったらどうだろう。それは、るりが私にくれたこれまでの母としての人生の喜びや、かけがえのない温かい大切な18年間を、自ら貶め、否定し、価値のないものにしてしまう事になる。
私がこれまで大切に生きてきた、るりのお母さんとしての人生を、温かい思いで慈しめるようにしたい。私のここからの人生は、それを目指して生きていきたい。
そのためには、自分にかけている自罰の呪いを打ち砕かないといけない。自らを大切にしケアすることを、自分で許すことが必要なのかもしれない。
自分をネグレクトすることは、簡単だ。それはるりへの贖罪にはならない。謝罪した気になんとなくなれるかもしれないけれど、自分で「やった感」を醸し出して誤魔化しているだけだ。むしろ、それはるりと過ごしたこれまでの人生を台無しにする行為だ。
そうは言っても、すぐには自責が止まらないのだが、自死遺族にもこれからの人生はあると思いたいし、それを前向きに生きることが、るりと生きてきたこれまでの人生に意味を与えると信じたい。だからここに書いておく。