たまにはこういうのも
今回のノートは、私のメンタルヘルスの状況ではなく、最近体験した生死にまつわるエピソードについて少し考察してみたものである。
そんなもの興味ねーよという方は回れ右していただければ。
先週末から今週前半は娘の胃腸風邪でバタバタしており、自分の心と向き合う時間が全くなかった。
これはこれでよかったのかもしれないと思うし、体調の反動が怖いなと思う一方。
昨日、数日ぶりに娘が学校に行ったが、やはりお腹が痛かったらしく早退連絡。お迎えに来てほしいと言われたためお迎えに馳せ参じたのだが、その道中での出来事。
学校までの道すがら、近道をするために近所のスーパーの裏口を通っていった。
すると、駐車場の入り口の植え込みにおばあさんが1人座っており、反対側の駐輪場にもおばあさんが1人、さらに自転車を引いたおばさんがその様子を近くで見ていた。
一体何をしているのかなと思って見ていると、どうやらドバトが立ったまま落鳥(鳥が亡くなること)したらしく、それを植え込みに座っているおばあさんが駐車場脇まで連れてきたらしい。
それでも、ここも車が通るから轢かれてしまっては可哀想だと、店員が来るまで鳩を見守っているのだと話していた。
その間に自転車のおばさんが店員さんたちを呼びに行って、駐輪場のおばあさんがその様子を見て植え込みのおばあさんに「あなたも危ないよ!鳩も可哀想だけど、あなたに何かあってはいけない」と、声をかけていた。
植え込みに座っているおばあさんは、
「私も鳩さんとおんなじだから、いつ逝くかわからないのよ。鳩だけど、人ごとじゃないのよね」って言いながら鳩を手で守っていたのがとても印象的で、私は娘のお迎えそっちのけで、そのやりとりを見ていた。
その後娘をお迎えに行って戻ってくるとき、再度ドバトとおばあさんを見に行った。
ちょうど、おばあさんは自転車に乗って帰っていくところで、店員さんたちは途方に暮れていた。
スーパーの敷地内だけど、やはり衛生上良くないし、生ゴミで捨てるのも抵抗があるとかで、本社とやりとりしているようだった。
結局ゴム手袋とダンボールを持ってゴソゴソしていたから、多分段ボールに入れてどうにか処理するんだろう。
ドバトもおばあさんも私も誰もかもいつ死ぬかわからないし、どこで死ぬかもわからないから、逝ってしまったものに対しては自分ができる精一杯の誠意を持って対応したいと心から思った。
落鳥しても尚、車に轢かれては可哀想だと守れるような人間にならないといけない。これは使命だと感じたし、あのおばあさんは自身の使命を理解しているのだろうとも感じた。
そして、日々悔いのない人生を送りたいなと。
今休んでいるからよりそう思うけど、身体を休めたり労われるのは自分だけで、周りがどう言おうとそれは自分にしかわからないことだから、今過ごしている何もない空白みたいな時間も休むという意味では有意義なのかなと感じたり。
鬱(または適応障害)になってみて思ったのは、簡単に口にできる倍以上の体力を使って治すんだなということ。
寝てましょう、何もしなくていいし考えなくていい、希死念慮が来たらお薬を飲んで下さい、ご飯はしっかり食べてください、たまには散歩に出かけてください、自炊や家事を少しずつやってみてください、たまには遠出してリフレッシュしてください。
どれも全部相当難しいし、とても体力を使う。
だからこそできた時の喜びも大きい、生きているという実感も湧く。
無言で送られてきた会社からの試験斡旋のお知らせをゴミ箱に入れて、もう少し私は自分と向き合うことにしようと思う。