早期療育に対する私の見解の話
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早期療育は
必要か、不必要か
意味があるか、意味がないのか
そういった話題でSNS界隈が少しざわつきましたね
私なりの見解を以下に記述していきたいと思います
なにぶんデリケートな話題であるため言葉を尽くします
全ての人の考えをカバーできるものではないです。でも自分の意見と違う方も「責められた」「自分は間違ってる」と思わないでください
そういった意図はありません(´・ω・`)
ちなみに私は「療育に早い内からお子さん、ご家族が関わることは必要」と思っています
今の「療育」とは
私は「療育」と「発達支援」という言葉は同義だと考えています
もともと「治療教育」から「療育」と言われた言葉ですが、現在は子ども達の発達を支援することの総称になっている言葉です
なので「療育」「発達支援」と呼ばれるものの中には数多くの知識、技術体系があります
ADHD
ASD
DCD
学習障害
感覚統合不全
身体障害
知的障害
精神障害
ダウン症候群
等の知識をもち
TEEHCH(視覚支援、構造化)
PECS
ABA(応用行動分析)
トークンエコノミー法
感覚統合
ペアレントトレーニング
音楽療法
リトミック
言語療法
認知行動療法
心理療法
多職種連携
保護者支援
等といった技術からなる支援をお子さんに合わせて提供することが「療育」「発達支援」なのです
「療育」「発達支援」に深く関わった身としては、「療育」なるものの「実態」は
「健常」、「障害」の有無を問わない子どもへの
「丁寧な関わり」
「合理的な関わり」
なので、「子どもに関わる人はやるならみんなやるべき」という思想
という考えを私は持っています
この人はやって、この人はやらなくていい みたいに分けるから話がこじれているな と…
例えば「お子さんに療育、発達支援は必要ですか」と問われた時
「はい」「いいえ」と答えが返ってくるでしょう
しかし、「お子さんに丁寧な関わりは必要ですか」と問われた時
「はい」と答える人が大半だと思っています
そういう「認識のズレ」が起こっています
「療育」「発達支援」における大切な前提・根幹
基本的に「療育」「発達支援」がお子さんやご家族に提供される際に、大切にされなければならない事があると思っています
それは
「上からの指導を少なく、二人三脚で進んでいく姿勢」です
「療育をしていないなんて駄目ですよ」
「療育をしていたから偉い」
「療育につなげないなんて…」
みたいなことをご家族に言う支援者、関係者がいたなら、それは「支援者」でも「療育」でもありません
いたずらにご家族を追い詰めても、単純にお子さんとの関わりが辛くなるだけですし、「療育」からも足が遠のくでしょう
私だってそんなこと言われたら「は ふざけんな」と思います
知識や技術や経験を踏まえて、ご家族と「一緒」におこさんのことを考え、悩み、試行錯誤をして支えていく姿勢 こそが必要なのです
また、実際の現場で私が行っていた療育はお子さん、ご家族ともに楽しめる、ユーモアがあることが求められました
これは後に根拠としても紹介しますが、「学び」は楽しいものでないと「学習」につながりません。よって楽しめる工夫や環境づくりは
必須なのです。「指導」と呼ばれるものは長期間の中で一滴一滴少しづつ滴加し、負担にならないよう提供するのです
「~してないんですか?そんなんじゃだめですよ」
「~しなきゃだめすよ」
と言われるような空間はそもそも「療育」「発達支援」を行う場には適していないのです
「早期療育」が必要な根拠を説明するなら…
「療育」の知識、技術体系の中で「早期療育」というものの根拠をご家族に説明するなら私は以下のようなお話をします
感覚統合の視点
感覚統合においては、0~7歳までの期間のお子さんは物事を抽象的に捉えず、感覚的に捉えてそれを運動に反映させます
考えるよりまず筋肉を動かす運動反応 これを「感覚運動発達の時期」としています
7歳までのお子さんの脳を「感覚を処理する機械」とまで表現するほどです
この「感覚運動」のプロセスがこれからの脳の心的、社会的機能(社会性といってもいいかもしれません)の土台になります
また、そういった土台が形成されないまま中学生、高校生になったお子さんに感覚統合的な運動を勧めると、自尊心が育ったゆえに運動課題が幼くみえて参加が難しくなる
といった状況にもなります
支援者やご家族も大きくなったお子さんへの支援の提供への「身体的負荷」が大きくなることも早期である理由の一つだと考えます
また、「適応反応」という概念もお子さんの成長への根拠の一つになります
例えば一本橋を渡ることを例に「適応反応」を説明すると
重心がズレて転びそうになるたびに、脳が転びそうな感覚を統合し、身体の重心を移動させ、一本橋の上でバランスを保つ
↓
行きたい方向に進むために自分と目標物を関連付けて位置関係を把握するには、視覚情報を身体や引力の感覚と統合し、
目標物にどんなコースで行くか計画する
↓
一本橋から降りた際に、以前よりも脳は重力や自身の周りの空間、自分の身体をどう動かせるかを把握しているので、一本橋を渡るのが簡単になっていく
これが「適応反応を重ねて感覚統合が発達していく」ということ なのです
子どもが遊びをしている時「楽しい」と感じているはずですが、この「楽しい」と感じることにも意味があります
人間は脳の発達を促進させる物事を「楽しい」と感じます。よって、「遊び」を楽しいと思えることは既に「脳が発達のために動いている」といえるのです
「適応反応」、「感覚統合」を重ねることは「楽しい」と思えるのです
ABA(応用行動分析)の視点
他害や暴言のあるお子さんがいたとして、それを闇雲に「いけないから」と静止や怒って止めたとしても、お子さん自身の学びや行動につながらないケースもあります
そういった状態が続くと、悩んでも解決できないご家族もお子さんもひどいストレスを抱え込んでしまいますし、結果として何も学べない状況が継続してしまいます
ABAはお子さんの行動理由が見えてくる分析でもあります。知っているとお子さんへの関わりに活かすことができます
他害をする前のお子さんの状況→お子さんの他害→こういう理由で他害をしていた→どこにアプローチを入れるか
といった所から、現実的なアプローチ方法が見えてきます
そういった分析を踏まえ、支援者と連携しながらお子さんへの関わりを考え実践し、お子さん自身が「経験を積み重ねていく環境」を早い内から整えていくことは大いに意味があります
TEACCH(視覚支援、構造化)の視点
特性や障害で発語がない、少ないお子さんとの「コミュニケーションの難しさ」も子育ての中で困難な状況に陥る場面の一つです
「思いを伝えられない」お子さんは
「自分一人で困難を解決しよう」
という「野性的自立」につながってしまいがちです
「人と人の相互のやりとり」から
「楽しい」
「嬉しい」
「自分の助けになる」
「わかってもらえた」
等の気持ちが育つことは、ご家族、ご家族以外の他者と関わりを深めていく経験を重ねる上での「コミュニケーションの土台」づくりになります
そのため、TEACCHやPECSのような視覚支援(絵や写真による情報、意思共有)やスケジュールや活動の構造化は
本人の意思が伝わる環境が心の余裕を保ち、同じイメージの共有を助け、「やりとりが楽しい」という思いを萌芽させていく手助けになります
全ての「療育」の目的は
「不用意な失敗、挫折体験を避ける」
「誤学習を出来るだけさせない」
「成功体験からの自己肯定感を育てる」
「人間関係、社会への繋がりを保つ」
「本人に合った学習スタイルをみつける」
等といったものがあり、その目的に向かって
「根拠のある合理的な関わり」=「療育」をしていく
ということなのです
「早期療育」の何が問題か
「早期療育の必要性」は私は大いに感じます
しかし「早期療育」という言葉のもつ危うさ…これを支援者、保育者、教育者は今、どういう理解をもっているでしょうか
いたずらに煽ることで不安になったご家族が「療育でない何か」に手を出してしまうことを助長している側面もあります
悪質な事業所の
「普通になる」
「治る」
「改善する」
なんて言葉は、ある種のパニック状態になっているご家族の、「お子さんの成長を願う気持ち」にスッと入ってしまうのです
それは「療育」「発達支援」の信用を損なう結果になります。それはそもそも「違う悪質な何か」です
この「療育」という概念がひと昔前は「治療教育」という概念で、医療にある
「早期発見・早期診断・早期治療」
の考えがそのまま
「早期療育」に踏襲されてしまったことも、「良くなかった」と考えています
結果として「健常児」、「障害児」という分離のラベリングが進み、「その子自身」を省みなくなったのではないでしょうか
もっと言うなら
「障害児」
「大変なお子さん」
「ここではみれないお子さん」
だからご家族に、専門機関に行って、診断をもらって、服薬をしてもらって、訓練や指導を受けてください…と言う
「早期療育」という言葉でその子自身を「みつける」ことを放棄していないですか?
SNSをみていると
「支援学校に行くべき」
「支援級にいくべき」
「早期療育を」
「園でみれる環境ではにから断るべき」
という教育者や保育者もよくみかけます
あなた達が考えるべきは「そこ」ですか
本来なら、
そのお子さんの苦手さを見つけること
どのようにすれば手助けできるかを探ること
得意なこと活かす活躍の場をつくること
等
それが「目の前のその子」と関わる支援者、保育者、教育者に求められることなのではないでしょうか
「療育が不必要」なのではありません
「療育」と呼ばれるものを「分離」「排除」「放棄」の口実にしていないか ということです
ご家族の「早期療育」への不安や怒りははそこにあるのだと私は考えます
自分達の園には環境や能力がないから園児を断れないとずっと主張していませんか?
学校にも福祉は必要と主張しつつも、自分達ではなにもアクションを起こしていない状態にありませんか?
ご家族が望むのは
「あなたの息子、娘さんは障害がある」
「服薬が必要」
「訓練が必要」
という告知ではなく
一緒にご家族の不安や悩みを考え、歩幅を合わせながらそのお子さん成長を見守ること
なのです
「早期療育」という言葉は、ご家族やお子さんを焦らせるために、追い詰めるためにあるものではないのです
「療育」の予後について
「早期療育の予後」についても記述がありましたね
お子さんの予後を把握するのは非常に難しいことだと思っています
ひと昔前の支援者の関わりは信じられないほど乱暴であったり、排除、隔離ベースでした
そして今、「療育」と謳われるものの中には悪質性の高いものも多く
・自然に任せるのがいい と謳う
・原始反射の残存があると謳う
・食事や飲料水で改善を謳う
・電気治療などを謳う
・電磁波の影響、自然派である等の根拠の薄い内容を支援に盛り込んでいる
・偉人なども発達障害であることを根拠にお子さんへの希望を煽る
・治る、改善、治療などという言葉を使う
・独自性を必要以上にアピールする
・海外の主流、脳波などもっともらしいことを謳う
・宗教、シャーマニズムなどでの治療を謳う
・SNSに愚痴や攻撃的な投稿を許している
・お子さんの保険などについて説明しない
・都合のいい良いことばかり喧伝する
そういったものが「療育」や「発達支援」の領域に入り込んでいる状態でもあります
「早期療育を受けた」という人の「療育」が
どのようなもので
どのような期間
どのようなことをし
どのような結果になったのか
その後、公教育を経てどのような成人となったのか
そこからエビデンスを抽出するのは非常に難しいです。しかし、それは支援関係者がやらなければいけないことだと思います
「早期療育」というものが世間から注目され始めてまだ日は浅いという認識ですが、2000年代から更に加速していった印象です
今20代~30代になるお子さんやご家族は、関わった支援者は「早期療育」にどのような印象をもっているでしょうか 今こそ良くも悪くも結果が出るのではないでしょうか
そこからやってきたことの結果やエビデンスを抽出し、次の関わりに活かすものを見つけていくのは支援者の役割です
そういう意味で
エビデンスがないから「早期療育」にかからないでも安心してください
というような関係者からの言説は支援に関わる者としては非常に腹立たしい思いを持ちました
と同時に、「不確かな早期療育」というものに対してこういった評価になるのも納得はできるな とも…
まとめ
この記事では「早期療育」の私の見解も根拠も書きましたが「療育行くかどうか」というのは十人十色の事情があると思っています
行って「助かった」と言う人もいれば
葛藤中であったり
距離的な問題があったり
周囲にやばい施設しかなかったり
効果を感じることができなかったり
その考え方に追い詰められたり
する人ももちろんいるでしょう
私としては「療育」は「正解も不正解もないもの」と考えています。そこで追い詰められるなら離れてもいいのではないかと思うのです
もしよければみなさんの療育のエピソード、考えを教えてください
返信でも、引用でもなんでもかまいません
ただ、皆さんそれぞれが事情があり、思いがあります
相手のことを批判する、否定するようなコメントはやめましょう
見つけたら注意、ブロックします
「こういう意見もある」というブレインストーミングな思考を大事にしましょう
以上になります
これからも少しづつ投稿していけたらと思っています。
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