息苦しさの解明
これは、誰に行っても理解してもらえないような小さな心のもやもやを整理するためのただの呟き、である。
誰に行っても完全な理解などされないと分かっていながら誰かに聞いてほしいという我儘が、面倒に気を引こうとしているようだ。
題名の通り、今私が感じている息苦しさの原因について、ふとひらめくことがあった。どうせなら以前から手を出しては引っ込めていたnoteを使って言葉にしてみようと思う。
小さなころから、周りの人に褒められるのがとても好きだった。
だから、人の顔色を窺い、人が喜ぶことを想像して可能な限り先回りして行動を起こしていた。人の為にする自己犠牲に誇らしさすら覚えるほどだ。
幼稚園、小学校、中学校、高校、どこの世界でどんな人たちに囲まれてもそのモットーが途絶えることは無かった。
それには、少なからず実年齢からはみ出して評価される出来栄えがあると確信していたからと思われる。
「まだ子どもなのに」しっかりしているね。ただ、そう言われたくて人の為に動いた。
しかし、大学に入るまでに積み重ねた、ある意味偽りの善意や偽りの真面目さは評価されなくなりつつある。
それもそうだ、アルバイトも始めた現在は、人のための優しさなどいちいちかまってもらえるような社会ではない。常に、自分のことは自分で何とかしろの世界だ。
そう、今は、「もう子供じゃないから」しっかりしなくてはならない。
そう思った瞬間に、今まで前向きにできていた偉い自分を、維持するのが難しくなった。
結局褒められたくて私は真面目に生きてきた。
それでも、もう褒めてもらえる期限は切れてしまったらしい。
それどころか、他の人よりも「しっかり」しようと生きてきた私は、身の回りの友達にも、家族にも、しっかり記憶されている。
結局私は「相変わらずしっかりしている」人でいなくてはならない。
今思うと、辛さも喜びも、感情を出しすぎないことを「大人」と思って何事もそつなくこなしているように見せようとしていた自分を憎みたい。
自分が常に必死にならないとこなせない容量の能力を自然に求められるようになってしまったからだ。
しっかりしなくていい時ほど、しっかりしていたかったのに、しっかりしていなければならない時には、なぜかそこに反抗心のような何かが生まれる。
なんて、天邪鬼な心なのだろうか。
人に喜んでほしくて、評価されたくて、そのために頑張ることはできるから。
せめて、頑張っていることを知ってほしい。
それを今、誰にも言えないことが、一番の息苦しさの原因なのだろう。
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