書籍『ゼロ・ビートの再発見』の問題点

 平島 達司 氏 による音律解説書『ゼロ・ビートの再発見』は、古い書籍ですでに絶版になっていますが、プロアマ問わず音律研究者が良く参照するのを見かけます。しかしさらっと私が読んでみたところどうも、出版年が1983年であるということもあり内容が古く、現在得られる情報から総合して考えるに、音律の歴史について誤解を与えかねないのではないかということで、このような『大学の先生の講義に素人が重箱の隅をつつく』的な文章を書いてみたわけであります。
 『ゼロ・ビートの再発見』には二冊あり、"「平均律」への疑問と「古典音律」をめぐって"との副題がついたものと、技法編がありますが、ここで取り上げるのは前者です。前者は歴史を交えた議論があり、後者は主に計算や実際の調律上の注意があります。
 私の各主張の根拠はそれぞれの主張の下にリンクを張る形で示しています。多くがほかの私のnote記事ですが、これらnote記事に根拠となる出典を示してあります。同じ記事やリンクを何度も示していますが、分かりやすさのためです。



誤解を与えかねない主張、表現

鍵盤楽器への平均律適用の普及は19世紀中盤からであった

 本書では、当時は平均律調律に必要なうなりの回数を計算できず、平均律は不可能だった、したがって19世紀中盤に科学的知見が現れるまで平均律は一般的ではなかった、という流れで話が進んでいきます(p. 88 ~ 91)。しかしこれは誤解を与える表現です、なぜならば18世紀前半のドイツでは既に『すべての五度を耳で聞いて純正から少しずつ狭める』方法での平均律が実用化しており、18世紀後半には少なくともドイツでこの方法で調律した平均律が一般化しているためです。耳で感じ取るだけで調律が可能であったということです。このことはWerckmeister、Neidhardt、Barthold Fritz、CPEbach(大バッハの息子)、Daniel Gottlob Türk(wikiの情報によると大バッハの孫弟子)、kirnberger(大バッハの弟子)、Johann Nepomuk Humme(モーツァルトの弟子)、Carl Czerny(ベートーベンの弟子)、その他当時の音楽家の調律指南書などの数々の独立した記述によって確かめられます。多いですが、以下をご参照ください。

参考:
平均律の歴史的位置 坂崎 紀

https://mvsica.sakura.ne.jp/eki/ekiinfo/HPET.pdf


 また本書ではこの根拠としてブロードウッド社がピアノを始めて平均律に調律したのは1842年である、という記述をしていますが、ブロードウッド社はイングランドの会社であり、平均律が早く浸透したドイツ・オーストリアとは区別すべきではないかとも思います。このように、地域差があったことにも注意が必要です。またピアノ会社が採用する前からある程度平均律が広まっていた可能性もあります。

参考:

 このようにいくつか根拠が示されていますが、バッハの時代から、ロマン派以降のイギリスのピアノ会社までもが平均律を採用し始めた100年以上の間で、どのような実態があったのかを示す調律指南書などの根拠は示されず、『平均律がないのだからウェル・テンペラメントだろう』という形で議論が進みます。実際には、この100年のかなり早い間で、地域によっては平均律が普及していった証拠があります。
 確かに当時(18世紀後半)も大バッハの弟子のキルンベルガーは、書籍『純正作曲の技法』において、平均律をモノコードなしで調律するのは不可能で、だからより調律しやすい私の音律を使うべきと主張しています。しかしながら一方で、多くの人々が平均律を求めるようになっていると認めてもいるのです。実際この書籍に反応してDaniel Gottlob Türkは『クラヴィーア教本』において、いやそんなこと言ってもみんな感覚で調律した平均律を受け入れているし、キルンベルガーの示した音律が平均律より調律しやすいというのも自明じゃないよね、と反論しています。当時もこの類の議論はあったということですね。ですが数々の証拠を見るに、それが数学的厳密さでどれだけ正確なものであったかは置いておいて、ドイツ・オーストリアで感覚で調律した平均律を人々が使用していたということがいえそうです。


ヴェルクマイスターが平均律を発明したというのは嘘である。

 これ自体は事実です。これより前に平均律の理論を表した人が存在するためです。しかし、ヴェルクマイスター自身も有名なヴェルクマイスターI(III)以外にもっと平均律に近い音律を記していたり、晩年には平均律で‘wohl temperierte Harmonia’ 、つまりwell tempered Harmonyが得られると述べたりしていることは記していません(しかもこれらは大バッハがDas Wohltemperirte Clavierを出版する前のことです)。またNeidhardtの音律についても、バッハが評価したオルガンに採用された比較的平均律に近い音律なのですが、大々的に取り上げられていません。
参考:

大バッハ=平均律というデマは19世紀のヘルムホルツとフーゴ・リーマンが広めたのではないか

 これについて、私はこの二人の功績を知らないのでこの文自体がどれだけ正しいかはわからないのですが、この二人よりもずっと前に大バッハ=平均律を主張している人々がいたのは間違いありません。まずフリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルク(1718年11月21日 - 1795年5月22日)が、バッハの弟子キルンベルガーの証言をもとにバッハは平均律に近いものを使用していたのではないかと主張します。

1782年にはJohann Samuel Petriがbach = 平均律の図式を暗に示しています。

また大bachの息子のCPEbachは『大体の五度を少しずつ狭める』調律法を記述しています。テュルク(wikiによると大bachの孫弟子)も平均律を記述しています。

平均律の歴史的位置 坂崎 紀

https://mvsica.sakura.ne.jp/eki/ekiinfo/HPET.pdf

その一方で、これらバッハに近い弟子などが明確に、バッハは平均律を使用していなかったと語っていたという話は聞きませんし、この本にもそうした証拠は提示されていません。大バッハ=平均律と断言することはできませんが、本書で主張されるほどありえないわけではない、ということです。

ウェルテンペラメントがベートーベン、ショパン、その他ロマン派音楽などに用いられた。

 p. 58あたりの"ロマン派音楽は古典音律の産物"との表現も、誤解を与える物です。そのような一般化を十分行えるような証拠は存在しませんし、それぞれベートーベン、モーツァルトの弟子のチェルニー、フンメルは『すべての五度を耳で聞いて少しずつ狭める』方法での実践的な平均律を記述しています。ベートーベン、モーツァルトの時代にも、平均律が一般化しているとテュルクが述べています。
参考:
平均律の歴史的位置 坂崎 紀

https://mvsica.sakura.ne.jp/eki/ekiinfo/HPET.pdf

 またもう1つ言えることとして、キルンベルガー第2法を、当時有名であったと認めつつもあまり触れていない点も問題でしょう。134ページ注釈を見るにキルンベルガー原著の『純正作曲の技法』に当たれていなかったようです。おそらく当時日本語訳は存在しなかったでしょうから、致し方ないところでしょう。その他18世紀初頭のフランスで主流であったモディファイドミーントーンも考慮されていません。



その他、主観に基づく議論

 これらの誤解を与えかねない主張に、筆者自身の主観を交えた議論が展開します。芸術としては主観に基づくのは問題ないのですが、この書籍の場合歴史的内容と主観的主張が混じっていて、主観を歴史的な主張を言うための根拠としているという印象を受けました。

二〇世紀になって平均律に統一され、ウェルテンペラメントを捨て去ったことが、二〇世紀の音楽をダメにした原因であるとさえ、言うことができると思います。

p. 44

"ウェルテンペラメントを捨て去った"前の人々というのはこの本の文脈だと"ベートーベンからロマン派以降の人々"なのですが、前述のとおりこれらの人々がウェルテンペラメントを使用したとは証明されていませんし、ベートーベンの時代のドイツ・オーストリアではすでに平均律が一般化していたと考えられる痕跡があります。また"二〇世紀の音楽がダメ"というのは筆者の主観です。

 ドビュッシーは、ピアノが古典調律から平均律へ移行する過渡期に身を置いた作曲家と思われます。……ドビュッシーは譜例1では平均律の特色を生かし、譜例2ではウェル・テンペラメントを考慮に入れた、ピタゴラス旋律による旋律性を狙っているように思われます。彼の時代には、両方の調律法が共存していたからです。

p. 50 段落途中の省略を……で示した

 ドビュッシーの時代に両方の調律法が共存していたため、このように思われるのでしょうか。それともこのように思うため、ドビュッシーの時代に両方の調律法が共存していたと主張しているのでしょうか。それともドビュッシーの時代に両方の調律法が共存していたのは決定事項で、それとは独立にこのように思われるのでしょうか。
 上に書いたようにドビュッシーのずっと前にドイツ・オーストリアで平均律が一般化していたとも考えられ、以下のまとめによるとフランスでも19世紀初頭に緩いモディファイドミーントーンから平均律への移行があったそうです(モディファイドミーントーンが考慮されていないのも問題です)。
A Clear and Practical Introduction to Temperament History

https://www.researchgate.net/publication/329591485_A_Clear_and_Practical_Introduction_to_Temperament_History

 そしてもしこうした多様な音律に合わせて作曲していたという事実があるのだとしたら、他のこの時代の作曲家を含め少なからず各曲に指定の音律を記す動きがあるはずですが、そのような根拠は本書では示されず、私もほとんど例を知りません。実際どのような状況だったのか、私の知識から断言はできませんが、どのような主張をするにしても周りの作曲家の動向や、ドビュッシー自身がどのように発言していたのかなど、根拠が必要です。

 以下の引用はヴェルクマイスター音律に関連して、ピタゴラス音律での三和音の響きとバッハの音楽の相性に言及した箇所です。1897–1970のJ. Murray Barbourという人はバッハがウェル・テンペラメントを使用した可能性を指摘しつつも、ヴェルクマイスター音律では純正から大きく外れたピタゴラス三度が多い調が存在するが、バッハはこうした調も多く使用していてこれは不可解であると述べていることについて。

このピアノでは、いわゆる『平均律ピアノ曲集』第一巻第八番の変ホ短調プレリュード(♭6個)のピタゴラス三和音が最高に美しく演奏できるのです。これは、コンサート・チューナーやピアニストたちの一致した意見です。バーバーは、実際にその響きを検討しないで、推定で物事を言っているに違いありません。また、バッハは自分で弾いているのですから、この事実を見逃すはずがありません。

pp. 56 ~ 57

とにかくこの文章は、バッハが平均律を使用しておらず、ヴェルクマイスターI(III)音律を使用していたという決定事項に則っているようです。しかしながら、バッハがどの音律を使用していたのか確たる証拠は存在しません。またJ. Murray Barbourが響きを検討していなかったという根拠はありませんし、響きが美しいというのも筆者と、一部のコンサート・チューナーやピアニストたちの主観です。

 したがって、一九世紀末までの音楽は、和声的な音楽(ポリフォニー音楽やホモフォニー音楽)の立場を守り続け、平均律のピアノの普及と共に、だんだん和声的な音楽が衰退してきたものと思われます。一方、平均律を普及させれば、ピアノの大量生産、大量販売が可能になります。バッハも平均律を使ったと言えば、決定的な影響力がありますので、「バッハ平均律伝説」が冒した過誤は絶大なものがあったことになります

p. 59。この前の段落ではうなりの数の計算ができなかったため、19世紀中盤まで平均律は普及しなかったという主張が展開している。

 この文章をどうとらえるかは人次第かもですが私には『一九世紀末までみんなウェル・テンペラメントを使用していたが、工業的な理由からピアノ会社が「バッハ平均律伝説」を広げ大量生産をした結果、皆それに半ば騙され平均律を使わざるを得なくなった』と言いたいように読めます。まず、一九世紀末ではイタリアの一部などでウェル・テンペラメントが使用されたぐらいで、当時のイギリスの音楽百科事典を見る限り、保守的で平均律の浸透が遅れたイギリスでももう平均律が主流になっていました。この事典には『歌の練習まで平均律にそって行うのはおかしい』という議論があり、こうした記述を『当時まだ平均律が一般的ではなかった』と早とちりして解釈しないよう、これも注意が必要なところです。

A Dictionary of Music and Musicians/Temperament
https://en.wikisource.org/wiki/A_Dictionary_of_Music_and_Musicians/Temperament

そしてピアノ会社が平均律を欲した理由も、よく考えると自明ではありません。工業的な理由かもしれませんが、既に平均律が普及していたためであるとも考えられます。ここの記述の根拠は示されていないようです。そして「バッハ平均律伝説」は上で述べた通りもともと、バッハがなくなったのちの弟子や息子といった、よりバッハの世代に近い人々が広めたものと考えられます。「バッハ平均律伝説」はピアノ会社が広めたとも読めますが、その根拠は示されていないようです。

全体的な感想

 全体として情報が古く、『大バッハの時代には平均律は不可能だった、その他のウェル・テンペラメントで当時使われたのはヴェルクマイスターI(III)であった』という前提を元に書かれているようです。しかしながら実際には大バッハの時代から平均律は実用化していましたし、ウェル・テンペラメントや、その他モディファイドミーントーンも数多く種類がありました。本書の主張について、本に記しておらず私が確認できていない根拠があるかもしれず、著者に確認すべきところであったかもしれませんが、残念ながら著者の平島 達司 氏は30年以上前に亡くなられています。
 色々と書いてしまいましたが、この本の執筆年代は古典復興がまだまだこれから始まる、という年代で、情報が十分回らないところがあり仕方がなかったのかなとも想像します。何と言ってもすでに、四〇年以上前の書籍なのです。古典音律関係の日本語での書籍は多くはなく、図書館などでこの本に行きつくこともあるでしょうが、この事実は頭に止められると良いでしょう。
 主観が多い、というところはいろいろな意見があるでしょう。芸術なのだから主観を述べても問題ないではないか、という意見はあるでしょうし、そのこと自体は私も同意します。ですが本書は始めではなく第三章に根拠が書かれていること、その前後に主観を交えた断定系の表現が多くみられることなどから、歴史的事実について誤解を受けやすい構成になっていると感じました。読む側としては歴史学の厳密性が求められる部分と、個人的な芸術的主張は分けてとらえるのが良いかなと思います。
 ここで取り上げた以外にも語気の強い表現が見られ、自分の好きな音楽がなかなか認められず、無念だったのだろうななんて、まことに勝手ながら思います。念のため申し上げておきますが私はほかの人々の多様な感覚や芸術を否定しているのではありません。芸術的には、歴史学的にどのような事実が示されようと、それとは独立して、自由に何でもして良いのです。
(kirnberger2で演奏したbachとか聴きたい誰かやって)


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