なぜ、その時死にたかったのか
しばらく更新が止まっていたのは、実は病んでいたからです。
特に9月の4連休中が底で、メンタルの悪化が下げ止まった後は躁状態に反転し、その後今はかなり精神的に安定してきたので、これから改めてnoteを頑張っていきたいと思います。
一番鬱っぽくなったのは、大学生の頃の約半年程度。今回は4日程度で治まったから、その時と比べればかなり軽症な方でした。
それでも、短い期間でもその時は確かに死にたいと思っていたはずなので、今その感情について振り返ろうと思います。
なぜ、その時死にたかったのか
きっかけは、敢えてカテゴライズするならば恋愛絡みとでもいうのでしょうか。ただし、今振り返ると、それ自体は死ぬことに見合うような理由では到底ありません。
そこから派生して妄想のように膨れ上がってくる人間不信や、自分を本当に理解してくれる人がいないという精神的疎外感、孤独感、自己無力感など。
こう思い始める時は通常の精神状態ではなく、視野も狭くなっていたと思います。
今思えば、さすがに偏狭で頑迷すぎるけれど。
なぜ、その時死ななかったのか
「なぜ死にたかったのか」の理由が曖昧なのに比べて、なぜ死ななかったのは比較的分かりやすい気がします。
一つ目は、死ぬような勇気が自分にはないこと。
死ぬときの痛みや恐怖を耐えるような勇気がない、ということが「死なない」という意味では良い方に働きました。
二つ目は、本当にやりたかったこととこの先やるべき事がまだあるということ。
それから、一度鬱の経験があることから、自分の負の感情を底打ちする方法がなんとなく分かっている、ということも今回回復が早かった大きな要因であると思っています。
心理学的には、これをレジリエンスと呼ぶらしいです。また機会があれば調べて書いてみたいと思います。
僕は、音楽と、文章に救われたと強く実感しています。
「死にたい」で検索してどこの誰が書いたのかもよく分からないブログを読んだり、音楽、特にHip Hopを聞いて勇気づけられたりしていました。
それらがなければ、今生きていられているとは思いません。
自分のnoteもそれらの一部となって、誰かの救いになればいいな、とは思わないです。
そういう目的でnoteを始めたわけではないし、「死にたい」と一言で言ってもその中身は人によって色々違って、僕には理解できないことがたくさんあるからです。
「分かったふりをする」ことほど失礼なことはないと思うので。でも、分からないことを分かったうえで、分かろうとする人ではありたい。
また気付きがあれば、追記します。
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「死にたい」のwikipediaがあるのは日本語版だけのようです。wikipediaは編集履歴が見られますが、編集者たちの闘いの跡(死にたい気持ちが甘えであるという部分を削除した等)が残っていてなかなか興味深かったです。
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