若松英輔・山本芳久『危機の神学』(文春新書、2021年)を読んで。
本書は神学という営みがどういうものであるかを問いかける書。哲学と神学との関わりはあまり日常的に意識されることはない。しかし哲学の中に神学的な問いかけがあり、神学の内に哲学的な洞察が含まれることを、本書は明示してくれる稀有な本である。著者の二人の対話の中で持ち寄られる本がちょうどその時を掬い取るようにして、言葉が下りてくるような体験を読者もまた経験できるであろう。
教皇フランシスコの「無関心のパンデミック」への応答としての、祈り。一見近寄りがたく思われるグァルディーニ枢機卿の祈りについての洞察が特に印象的であった。代表する神学者と評されながらもあまり触れることのできない方であるが、陰に陽にその影響は言及されているグァルディーニ(ファーガス・カー『二十世紀の神学者』参照)。そのグァルディーニの具体的な言葉に触れ、具体的には何もできない状況に置かれたとしても、祈りを通して具体的な道筋が一人ひとりにもたらされ得ることが明確な言葉で語られていた。ちょうどパウロがこの世を去る前に書き記した手紙のように、私たちが何をすべきかを問いかけてくるのである。
本書の特徴は神学的問題群が如何に私たちが生きることと密接な関わりをもつのかを明示するところにある。神学者トマス・アクィナスの観想についての洞察が、時代を隔てた哲学者アリストテレスとの深い対話に根ざしたものであることを明らかにしてくれる。さらには現代の私たちに痛切な問いかけをもたらしたアーレントの「悪の凡庸さ」(あるいは「凡庸な悪」)が彼女のアウグスティヌスとの神学的対話に基づくものであることを暗示してくれる。影響関係云々ということではなく、一人ひとりの思想家や哲学者と向き合う時に神学的な背景があるかないかでその読みの深さが変わってくることを本書は伝えてくれるのである。
教皇フランシスコの「無関心のパンデミック」という問いかけはただ知的に優れることをではなく、身近な他者にどう向き合うかを問いかけている。あれをしなさいこれをしなさいという具体的な指示ではなく、一人ひとりがどう他者と出会うことができるのか、どう他者と出会うべきなのかを問いかける教皇フランシスコの言葉に触れることで、読者もまた善きサマリア人の物語の中に自分を如何に見出しうるのかが問いかけられるのである。
本書は言及される本の紹介に留まらず、その紹介される本のエッセンスを引き出し、その中に語られる言葉を通して読者もまたそれぞれに古典との対話へと移り行くことを読者に呼びかけているのである。今、この危機と戦争の時代にあってこそ読むべき書であることを感じた。