藤沢令夫『哲学の課題』(岩波書店、1989年)を読んで。

 哲学とはなにか。それは絶えざる自己探求にほかならない。哲学を学ぼうと思う人の多くは哲学書を紐解くと思う。もちろんそれが重要な道であることは否定しない。しかし哲学書で語られていることが必ずしもそのまま事の実相を伝えるものとは限らないのである。そのことを知らせてくれるのが本書なのである。すなわち、哲学を学ぶとは絶えざる自己点検の営為を含むのである。
 どのようにして哲学の道に入るかはその人のその後の歩みを決することがある。哲学を通して世界観を手に入れることはともすれば限定的な世界観を有することに繋がるかもしれない。本書の著者は自らの専門に照らして現代哲学において語られていることへの違和感を語るのである。それらは分析哲学の世界の切り取り方であったり、ハイデガーのプラトン理解についてであったりする。しかしだからといってすべてを否定しているわけではなく、読者に自らの目で確かめることを促しているのである。むしろ本書はサールの言語行為論についての他書にない解説をも含む、珠玉の論考である。
 本書の主調を成すのは目次からも明らかなように「実践と理論」を巡る省察である。観想(テオリアー)と行為(プラクシス)を巡る論述はともすれば私たちが他の哲学書を通して受け止めている印象が如何に一面的であるかを明らかにする。しかも驚くべきことに、両者の断絶に決定的な影響を与えたアリストテレスその人の初期の思想に於いてさえそうであることが語られる。そしてその初期アリストテレスとプラトンとの比較は、単に師弟間の同意にとどまらず、何処に差異があるのかを明らかにしていく。その過程で詳述されるイソクラテスの体系的な教育観は現代を生きる私たちを有る種の行き止まり(アポリア)へと導き、プラトンの問いかけを逆照射し、その深層を浮き彫りにするのである。そのように照らされた彼らの思想に立ち会う読者は自ずと哲学的思考の何たるかに思い至ることであろう。
 本書は田中美知太郎に続く世代のギリシア哲学研究を牽引してきた著者による珠玉の論考である。それは今私たちが携えている哲学の現在を、そして「哲学の課題」を知らせてくれるものである。専門書ではなくより広い読者に向けた文章であるからこその平易さはむしろ哲学研究に馴染みのない読者を研究の最前線へと招くものであり、類まれな哲学入門と哲学研究の性質とを併せ持つ書物なのである。


追記)ハイデガーを巡る言説の熱っぽさに対して古典研究者の冷静さの理由の一端を本書に見出したように思う。その印象はアンソニー・ケニーの哲学史においても共通することであり、ケニーは古代哲学史においてはハイデガーに触れていない。教科書的な叙述ということであればケニーもその批を免れないのかも知れない。しかしケニーを単に哲学史家とのみ、あるいは分析哲学者とのみ受け止めることもまた非哲学的なふるまいと言えよう。図らずして、本書によってさまざまな気づきが与えられた。

本書が品切れなのは非常に残念である。著者の『世界観と哲学の根本問題』とともに、文庫化ないし復刊を望む一冊である。また本書に書かれているイソクラテスの哲学体系を詳述する書が現れることを期待している。

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