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没男雑感②【太宰にかぶれる】

 熱が下がらなくて人生に行き詰まっている没男です。

 小説を読んでいて、

「これは私のことを書いているんじゃないか!?作者は私の代弁者だ!崇拝!!」

というアハ体験、沼落ちしたことはありませんか?

絶対にない!!

とは言わせませんよ。ある程度小説読んでたらちょっとぐらいあるでしょ?

作品に自分を見出しちゃう読書体験。

てか、他人事で小説読むのって苦痛じゃないですかね。どうでしょう?

 没男も少年時代、小説読んで思いましたよ。

こいつ、俺じゃね?笑
俺のこと書いてね?

「人非人でもいいじゃないの」
え?パワーワードサンキュー!!

そして、シンパシーを求めて片っ端からその作家の作品を読んでいくわけです。そして、気づいたら熱が醒める。

まさに感冒です。

感冒的小説という意味では、太宰治が筆頭じゃないですかね。なにせ、

太宰にかぶれる

なんて言い方もあるし。
太宰治は没男も読みました。かなり。いや、ちょろっとだけ‥。あの、「私のために語っているのでは」的密室度はすごいですね。

まあ、あの破滅的な生き様という周辺情報も読み手を揺さぶるのでしょう。

で、あとは忘れました!

かぶれるってことは、そのうちおさまるってことです。おさまってない、ということはまだかぶれてるってことです。

「まだ太宰にかぶれてんのかよー」
「いやーあの頃は太宰にかぶれちゃってさ笑」

という揶揄・弁解は、

「まだまだお子ちゃまだな!目を醒ましな!」

と脳内変換されます。太宰を読むことがなんだか恥ずかしい空気すら感じます。

昭和初期の日本文学を調べたり、研究室にいたとき、なんとなくそう感じました。それでもですね、

卒論で村上春樹を扱うよりは遥かにハードルが低い!!!

太宰が感冒なら成熟した専門家がいなくなりますよね。読む人いなくなりますよね。

ちょっとちょっと、あれだけハマっといて、なんなら語って布教しといて、

「フッ、あの頃はかぶれてたのさ」

は、ないでしょう?!

かぶれに時効はないですよ。それがあなたの構成要素なのですから。

自慢できるほどかぶれてない没男は後年、太宰系の虚構と読者=現実のあわいを攪乱させるような作品を読んでも没入できなくなりました。加齢でしょうか。

むしろ、いまはこの攪乱自体、その手管に興味があります。テクニカルな側面です。

いきなりその境地を書けたら私はここにいないので、まず主人公の現実に(それは結局虚構なんですけど)虚構が食い込んでくる感じをメタフィクションで遊んでみたのが↓です。攪乱もクソも手管もないですね!ペラ過ぎる!まだやりようがある!

もういっそ、コント内で主人公を小説にハマらせる冒涜行為を試したわけです。残念ながら、あまりハマってくれなかった‥。食い込みも足りない!

あ、没男の体験を書いたという意味での「私小説」ではありませんよ!いや、90パー私小説かも!いや3パー‥

ここら辺は言いたい放題なので難しいですよね。太宰も私小説っぽい臭いがしますが、なかなか認定し難い。

なんとも小説のネタを求めて滅茶苦茶やってるようにも見える‥いや、滅茶苦茶やるから書けるのか?

だがしかし、ガチンコの破滅型私小説勢を見てしまうと‥ねぇ?笑

この辺の議論はかぶれにかぶれた方々に委ねたいところです。

で、現実って小説みたいに上手くいきませんよね。

だいたい平均以下に設定されがちの主人公僕に都合よく女の子が話しかけてくれるなんてあり得ないですよね!!!

結局のところ、これがいわゆる、没男的禁断作者の意図です‥。

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