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寝ながらシュタイナー『自由の哲学』(9/9)

Ⅶ 『自由の哲学』から人智学(精神科学/霊学)へ
本稿では、『自由の哲学』から人智学(精神科学/霊学)へのつながりとして、特に修行及び意識魂の問題を考察し、最後にゲーテの格言詩を紹介したいと思います。

1 修行とのつながり
⑴ 直観的思考(理念的直観)の把握が修行のはじまり
シュタイナーは「補足 最終的な問い」の新版への補足2で次のように言います。

…本書では、正しく理解された思考体験は、それ自体が精神体験であることを示そうとしてきた。…本書で述べられた直観的思考を生き生きと把握することで、自然な成り行きとして、さらに精神的知覚世界(霊界)への一歩を踏み出すことになるだろう(1:256)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

シュタイナーの後期の著作を見ると、直観的思考(理念的直観)を把握することが、精神世界へ至るための修行の第一歩でもあり、最重要事項でもあることがわかります。
⑵ 抑制と二段階
脳(生体)が思考を生み出すのではなく、脳(生体)は自らの活動の抑制によって思考の出現を促します。(このとき、自我を内包する思考が身体機構上に自我意識を生じさせ、私たちは自分の脳が思考していると感じます。)
より高次の存在のために自らの活動を抑制することは、修行の基本的なあり方です。(これは、自由、そして人類の進化発展のための基盤でもあります。)
そして、生体活動の抑制は徹底させる必要があります。

…自由な意志は二段階で成り立ち、この二段階を観察できないと、あらゆる意志が不自由であると思うだろう。これを観察できれば、生体活動の抑制を最後まで徹底できないかぎり、人間は不自由であることを洞察する (1:205)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

生体活動の抑制の徹底は、呼吸法やヨーガ、そして瞑想(内的平静)等と関連します。
修行者は、一日をふりかえる際、自らの内面を抑制し、内的平静をつくりだします。そして、より高次のものを(外から)呼び込める状態にするのです。そこでは、一度、日常の自分から離れることが、高次の人間(人間本性)を呼び込むことにつながります。
精神科学(霊学)の修行の終盤においても、境域を越えるとき、それまでの自らの集大成としてつくりあげた存在(小守護霊)との出会いの後に、さらに大きな存在(大守護霊)との出会いが待っているのです。
また、精神科学(霊学)において、死後、魂の世界を通過するときに「浄化・純化」されることで、次の霊の世界を通過するにあたって「力づけ」を得ることができるのです。
⑶ 「集中の行」「瞑想の行」へ
① 思考が自己を超え、周囲の世界へ広がっていることを利用する
魂の三要素において、感情や意志は個人との結びつきが強く、思考は自我を超えて広がり、周囲の世界との結びつきを強くしています。その分、通常の思考は個人との結びつきは希薄で、どこかよそよそしく、冷たく感じられますが、この周囲の世界へ広がっている思考が修行の要です。
② 思考実験
今、試みに、思考、感情、意志をそれぞれ同量ずつ有しているとしましょう。思考は自分の身体内に留まらず、周囲の世界に広がっているので、身体内においては、感情や(内なる)意志よりも希薄な状態です。
周囲に広がった思考全てを自己内に集中させるのが「集中の行」ではないでしょうか。
また、一度、自己内の思考をすべて周囲に放棄し、空にして、その反動で、放棄した思考とともに周囲の思考を呼び込むのが「瞑想の行」ではないでしょうか。(反動によって、もとの量以上の思考を呼び込める可能性があります。)
神秘修行は、「集中の行」と「瞑想の行」の二つに尽きるとシュタイナーは言います。

2 意識魂
⑴ 概念的思考(純粋思考/実践理性)から〈意識魂〉へ
起動力の最高段階「概念的思考(純粋思考/実践理性)」(動因の最高段階「純粋に直観把握された倫理目標」と重なる)が、精神科学(霊学)で言う〈意識魂〉であることは多くの人(例えば、實松宣夫)が指摘するところですが、筆者もそのように考えます。
自由な意志を展開しうる特定の魂の領域・人間本性(構成体)とは、意識魂なのです。
 起動力の四段階と魂の三分節
 起動力の最高段階「概念的思考(純粋思考/実践理性)」は意識魂となるのです。それは、起動力の四段階と魂の三分節とが関連しているからです。
『神秘学概論』に、次のような記述があります。

自我は知覚の対象からますます離れ、自我固有の所有物の中で作用する…そのような作用が発する魂の部分を、悟性魂あるいは心情魂と名づける(68)

『神秘学概論』西川隆範訳 イザラ書房

魂の三分節に、心情(感情)魂が加わり、感覚魂・心情(感情)魂・悟性魂・意識魂とすると、起動力の四段階と対応します。
魂の区分     ⇔   起動力の段階
❶感覚魂    ⇔   感覚知覚
❷感情(心情)魂  ⇔   感情 
❸悟性魂    ⇔   思考と表象(実際的経験)
❹意識魂    ⇔   概念的思考(純粋思考/実践理性)
 動因を四段階として考えられないか
(5/9)で、動因を三段階、起動力を四段階としたことに対して、寺石悦章氏から次のようなご指摘を受けました。
「起動力の四段階と動因の三段階ですが、動因も四段階とした方がよい(シュタイナーの意図が明確になる)のではないか…。たしかにシュタイナー自身が③-1~3として提示しています…が、その後の説明を読む限り、③-3は1や2とは別格で、 ❹に対応するのも③-3であって、③の全体ではないように思うのですが。」
確かに、③-3の純粋さ(感覚知覚とまったく関わらないこと)を重視すれば、③-1や③-2が第三段階で、③-3は第四段階だと言えます。
筆者も同意しますが、次の解釈は残ります。
それは、③-1や③-2においても、行為の規準となるものの根拠を洞察しようとしており、それが倫理的な進歩だとされている。このことを重視すると、③全体を一つの段階とみて、動因は三段階となるという見解です。
③ 解釈の「ゆらぎ」の大切さ
シュタイナーは天上的なもの(身体性に関わらないもの)を三分節で扱い、地上的なもの(身体性に関わるもの)を四分節とする傾向があります。
哲学の記述では四段階としたものを、神秘学の記述では三分節としていても不思議ではありません。(例えば、『神智学』において、シュタイナー自身が、人間の構成要素の数を9から7,そして4へと変容させるなど、さまざまな角度から物事を検討しています。)
このような、三分節と四段階を巡る問いの中で生じる〈ゆらぎ〉を丁寧に考察することが「自由」について考えを深めるための一助となるのかも知れません。(3と4からは、時間空間の基礎となる7と12という数が容易に生じます。)
この問題に関しては、筆者も引き続き考察を続けたいと思っています。

3 ゲーテの格言詩と「自由」
 次の詩は、ゲーテが見た「自由ではない人間」の姿ではないでしょうか。 

当為と意欲があるが、能力がない。
当為と能力があるが、意欲がない。
意欲と能力があるが、当為がない。
即ち、
なすべきことを欲しはするが、それをなし得ない。
なすべきことをなし得るが、それを欲しない。
欲しかつなし得るが、何をなすべきかを知らない。

(リーマーへ、1809年5月30日)

シュタイナーの言う「自由」は、究極のところ、すべきこととやりたいこととの重なり(当為(sollen)と意欲(wollen)との重なり)であり、それを支える人間の(進化において発展させる)能力への信頼にあるのではないでしょうか。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
私自身、noteに投稿するにあたり、資料の調べ直しやご指摘、ご意見を通して、当初よりもずいぶん違った観点から読めるようになりました。
みなさまへの感謝をこめて、今回はここで閉じたいと思います。

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