見出し画像

ミヒャエル・エンデの「モモ」

 前回の投稿から間が空いてしまいました。
 どうやらあまり自分には、世間様に発表しようとか、自分の思っていることをさらけだそうとか、そういう気質はそんなにないようで、自分であれこれ浅くも深くも考えることはあれ、自分で納得してそこで終わるタイプのようです。
 なので、何か書こうかなと思っても、書くことの面倒臭さが毎回勝ってしまうんですよね。 


 さて、最近うちの職場では「読書部」なるものができました。僕もそこに入っているのですが、毎回それぞれの推薦する本の中から多数決で課題図書を選び、みんなでそれを読んできてから、それについて話し合うという素敵な会です。
 その読書部で、先日取り上げられたのがミヒャエル・エンデ作の「モモ」。そこで、今回はその「モモ」について書きたいと思います。
 
 本作は、出版されたのが1973年の児童文学です。児童文学らしいファンタジーではありますが、結構奥深く、「時間」というものをテーマに、様々なメッセージが込められていて、とてもいい本でした。
 おおよそのストーリーは、次のようなものです。周囲の皆から愛されていたみなしごである主人公の少女モモが、あるとき時間泥棒である「灰色の男たち」のせいで、みんなの楽しい日常が失われつつあり、人々が変化していることに気付く。子供は自由に遊べなくなり、大人も皆せかせかして、以前のようにゆっくりお話もできない。そこでモモは、これに対抗して仲間を取り戻すためにも、時間泥棒たちと戦う…という感じです。
 まず、全体として感じられたのは、効率化・合理化・画一化を求める近代合理主義、功利主義、あるいは資本主義といったものに対する疑問ないし痛烈な風刺というテーマです。「時間を切り詰めて節約して、常にせかせかと働いて、それで幸せなの?」みたいな問題意識があるな、と感じました。
 例えば、作中に出てくる床屋のフージー氏は、時間節約のために他愛のないお客さんとの会話をを切り捨ててしまい、ただ速く客の髪を切ることに徹するようになる。すると、結局時間を節約しながら全く満足できず、だんだんせかせかとした人間になってしまう。また、都市の街並みは画一化され、同じ建物が並び、同じ景色が続くようになっていく。「効率化・合理化の先に、個性が殺され、人間らしさが失われるのではないか。」…そんな危惧に対して、ミヒャエル・エンデは警鐘を鳴らしたかったのだと思われます。
 さて、そんなテーマの本作に出てくる主人公のモモは、巻き毛にツギハギの服に裸足という、「個性の象徴」のようなスタイルで、「浮浪児」という、いわば管理されたシステムの外側の存在というキャラクターです。そして、モモは、人の話をとにかくじっくりと聴くことができるという少女です。これは作中で「特別な能力」という描写で書かれるのですが、まさしく、ちゃんと傾聴するというのは、誰もが自然にできるものではなく、意識しなければなかなかできないですね。気をつけないと、自分の話したいことばっかりに集中してしまいがちです。
 それから、目の前のことに1つ1つ集中して取り組むこと。いわゆるマインドフルネスですね。作中でいうと、道路掃除夫ベッポの「ひと掃き、一呼吸」というのもそうだし、亀のカシオペイアの歩みもそう。「ゆっくり歩むから逆に速く進む」というのは、そういうときもあるよなぁと感じさせられました。仕事でも、気が急いていて、あれもこれも…という状態では、何も手が付かなくて混乱したまま時間だけ過ぎていったり、浅くしか考えないからミスをする。逆に、一つ一つの目の前の作業に集中していれば、いつの間にか仕事が片付いているといった具合です。それから、趣味にせよなんにせよ、やっぱり集中すると深く感じられるから楽しく充実した時間になる反面、マルチタスクというか、例えば音楽を聴きながら漫画を読み、食事も同時にする、なんてことをすると、全てにおいて中途半端だし結局楽しくなかったりする。目の前の「ひと掃き」に集中していたときのベッポは、自分の仕事から満足感を得ていた反面、物語後半のベッポはとにかく早く掃くことにとりつかれてしまい、自分を見失っているのも印象的です。
 じっくり人の話を聴くことにせよ、目の前のことに集中することにせよ、心にゆとりがなければいけない。時間に追われていたらできなくなってしまうわけですし、気が急いていてもできないわけです。しかし、これができなくなってしまっては、いよいよ人生の豊かさが失われてしまう。そういうことだと思います。
 そして、僕が、本書の中で個人的に最も印象的だったのは、「時間の花」が最初に登場する場面です。異世界的な場所にたどり着いたモモが、色とりどりで二つとして同じものは無い花が、時の振り子の往復に応じるように咲いては枯れ、また咲いては枯れ…を繰り返すのを見るという部分。まさに人の持つ個性的な人生の可能性や豊かさを、美しい花として描写しているのでしょう。これに対応するのは時間泥棒の「灰色の男たち」で、これは合理主義、功利主義、資本主義的なものの象徴のようです。「灰色」というのも色彩感が無く、無個性であり、気力や生気が無い、死のイメージなのだなと思いました。灰色の男たちは、豊かな人生の象徴である色彩豊かな美しい時間の花を葉巻に変え、灰色の煙を出して消費してしまいます。これは、まさしく効率や合理化のみを求めた結果として、人間らしさや個性を捨て去ることとなり、その人の豊かであったはずの人生が浪費されてしまっていること表しているということでしょう。

 さて、ひるがえってわが身を見れば、仕事に追われて疲れて家に帰り、帰ったらやろうと思っていたことがあったにもかかわらず、それができずに終わってしまう。なんでそんなに疲れているかというと、「売り上げを出せ」「案件をこなせ」「今日中にやってください」「提出期限はいついつまでです」…などというプレッシャーが常にあるためです。(なんたってうちの職場の今年のスローガンは「より速く飛べ」ですから。)まさに「灰色の男たち」が自分の背後に迫っているわけです。(noteが書けなかったのもそのせいだ!…と自分の怠惰を棚に上げて時間泥棒のせいにしてみる。)
 そんな中、豊かなライフを死守すべくしている最大の抵抗は、やっぱりピアノですね。時間をかけてじっくり曲に取り込み、弾けるようになると、それはもう豊かな気持ちになるわけです。
 本書を読んで、そんなピアノや趣味に集中する時間、それから友達や家族と会う時間を大切にしたいと、あらためて思いました(普段から思っていますが。)。仕事でも、一つ一つ集中して、できれば満足しながら取り組んでいきたいですね。

 無駄に見えるものの中にこそ、人生の豊かさはある。あなたの個性的で人間らしい時間を大切に。そんなことを感じさせてくれる本でした。児童文学奥が深い!!!
 
 
 今回は以上です! お読みいただきありがとうございました。
 

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集