時間は想像の延長
過去・現在・未来。
時間というものが確かに存在して、自分たちはそのうちの現在を生きている。本当だろうか?
今回はそんなことについて思ったことを書いてみます。
そんなこと思っていたり書いたりできる自分に対して「お前は暇なのか?そんなことをして意味があるのか?」という声が聞こえてくるようになりました。
過去と現在の仕切り
よくよく考えてみると、過去は記憶であり、今はもうそうでない場合にのみ発見認識できるものということになるって思います。
そこにリンゴがあったんだよという場合、今でもリンゴが置いてあったら現在との区別ができないんです。したがってリンゴがあるのが過去であると言い切れないのです。
だから時計がある
それをはっきり示してくれるのが時計です。
特にアナログ時計は秒と秒の間に至るまですべての隙間を通過しながら針が動きますから、一瞬ごとに時間が進んだことを意識させてくれます。時を計るとは、よく言ったものだなあと思いませんか?
過去誕生の瞬間
結局記憶と現状が同じなら、記憶する必要もありません。だから記憶と現状が違うときに初めて「過去」という意識が生まれる。生まれるというか認識可能な状態になるのかな。
もし目の前の状況にリンゴしかなければ、リンゴの状況が同じである限り現在のままであるとも言えると思うのです。アニメーションで全く同じ画像を100枚繋いでも、それは1枚を長時間表示することと同じになってしまう。そこに時計が描かれると、すべてのコマに違いが見受けられるので、現在が最後のコマだけだと思えるわけです。
人は変化したときはじめて、比較するためにその前の状態を記憶する。そこに過去が生まれるのだと思います。これは聴覚も痛みも温度覚や臭い感覚も全てそう。変化から過去が生まれるということですね。
現在と未来の仕切り
そんな物はあると思いますか?えんじろうはないと思っています。ないというのは「未来」なんてものがないという話です。
人は誰もがSF作家
未来は単なる予測。このままゆくと多分そうなるんじゃないかなと言う人間の脳の想像力が生み出すもの。人は誰もがSF作家!なんていうとロマンを感じますが、実際に数秒先や数分先を予想して行動しています。
さっきのリンゴが左から転がってきます。今現在はちょうど中央に来たところ。その先どうなると思いますか?高い確率で右に向かって転がり続けるでしょう?失速具合によってはどの辺で止まりそうかも想像できますね。
もしも歯医者さんの宣伝のようにひとかじりされた状態が現在ならば、その先の未来はリンゴが全部食われてなくなっているのだろうなと思うわけです。
未来が誕生する瞬間
未来は無数にありどれを選ぶかによって結果が決まるとか言いますけど、それはあたかも未来が実在する前提で言ってるんですよね。未来は予測でしかないので、無限に可能性は広がっていてまだわからんということです。
平行世界《パラレルワールド》という考え方はロマンもあり好きなのですが、それは未来は最初からあるものという前提に解釈を進める、ちょっと強引な感じにも思えたりします。
しかしその未来は脳の中で色んな可能性として想像されています。存在はしてないけど、それまでの流れからなら想像できる。これは脳のすごい機能だと思います。前回の記事ではそれが不安の原因ともなるわけですけどね。
そしてそうこうしているうちに、予想だけだった瞬間に「現在」が到達して結果がはっきりします。つまり未来が誕生する瞬間などというものはないのです。未来の誕生すなわち未来が現在になる瞬間なのですから。
今を生きる材料
結局僕らは、今を生きるのみなのです。今起こっていることを大切にして、漠然と予想される未来については、過去のライブラリーから傾向を読み取りより良さそうな方向を目指した行動を取るということ。
過去と未来の利用法
過去も未来の想像も、ツールとしては利用できるものだと感じます。
過去は事実と解釈が合わさって結構普遍的なものです。だから未来を予測する材料として現在を巻き込んでその先の予想に利用できます。
未来は過去と現在から想像される解釈のみの世界です。あまり縛られすぎずに捉えたいものだと思います。
でもさあ
なんかちょっとわざとらしい虹のイラストができましたが、それはともかく。
人間ってその想像力で、可視光線は電波の1部でしかないという事実を発見したりするんですよね。目に見えていなかった赤外線や紫外線を見つけてしまうんですよ。更にその外側の色んな電波を発見し、今ではガンガン利用しているんです。
そう考えると知覚できないから存在しないと思っている過去や未来も、認知害時間軸みたいな感じで発見どころか利用するようになっていくのかも。
上に触れた平行世界も、そのための考え方の始まりの1歩になっているのかも知れませんね。