書評:藤田直哉『新海誠論』と古代
藤田直哉『新海誠論』というそのものズバリの本が出版されていた。昨年出た榎本正樹の書籍が新海誠の映画の細部に分け入り準拠作品との丁寧な比較をおこなって新海誠を論じていたので、期待をして開いてみたが榎本の著書や同時期に出た土居伸彰の新書に比べて議論が雑だなと思ったのでメモ程度に批判的書評を記す。これは藤田に限らず、新海誠を論じる際の民俗学的モチーフや考古学的モチーフに対する安易な引用への危惧からでもある。新海誠はある時から神話や古典、民俗学をモチーフにしており、そうした方面から考察/論評されてきたが、そこで展開される通俗的イメージがそのままあてはめられることで、現在その文化を担う人々へのバイアスやラベリングが起こってしまうこともあるし、前世紀の議論をそのまま現代につなげてしまうことにもなる。藤田の評論を読んでいてそうした傾向が最も顕著であると思い、問題点をまとめようと思ったしだいである。
新海誠と縄文とアニミズム
本書は作品論というよりも作家論に傾いているように思える。もちろん、監督である新海誠の人生は作品に影響を与えているし、私小説的な作品も作っており、新海が投影されているキャラクターも少なくない。しかし、あまりにも作家としての新海誠を読み込み過ぎているのではないかという気がしないでもない。そこに依拠する時に持ち出されるのが民俗学や考古学の視点である。筆者は民俗学も考古学も人類学も詳しくないが、それを導入する時はもう少し慎重になるべきではないかと思うのである。
新海誠作品は藤田は「雲のむこう、約束の場所」の蝦夷製作所や佐由理の夢に出てくる模様から新海作品に存在する縄文を読み取っている。たしかに「雲のむこう」に出て来る抵抗勢力として「蝦夷」の名を関した組織を出すことと青森という場所性を繋げることは意味があるだろう。しかし、それを新海の生地である小海町と結びつけて新海の作家性に結びつけるのは余りにも短絡的で素朴で暴力的ではないだろうか。更に縄文系に関する論述も「冒険心に富み、生命力が強く、おおらかな傾向」という現代人から見たステレオタイプ的な縄文人像/地方像であり、縄文を反映しているとは思えない。むしろ、考古遺物からそのような縄文人の性格は分かるのかということも疑問であるし、仮にそうだとしてもそれが現代まで連続性を持っているとは思えない。それを指摘するならば新海の発言や文章などそれなりに説得できる資料が必要だろう。
藤田の言うように新海誠と縄文のつながりは無視できない。ただし、それを結びつけるのはもっとオカルティックなものではないかと筆者は思っている。藤田は166ページで帆高の縄文性を指摘した後で、芸術家の岡本太郎が修験の山を旅した時に感じたアニミズム的感覚の文章を留保なく引用している。岡本太郎は縄文の美を見出し、縄文ブームを牽引した一人である。岡本の神話論・縄文論・日本論を引用する場合はそのことに触れるべきだろう。同時代は古代史ブームが起こり松本清張や大和岩雄が古代史に関する著作を執筆していたこともあるだろう。なにより1970年代はオカルトブームの真っただ中で1979年には雑誌『ムー』が創刊されている。「君の名は。」で勅使河原が読んでいて、「天気の子」で帆高が記事を書いていたあの雑誌だ。むしろ縄文と1973年生まれの新海誠を結びつけるのはオカルトの中で育まれた超古代史なのではないだろうか。オカルトの補助線を引くことで「星を追う子ども」に出て来るヴィマーナ(オカルト雑誌では超古代兵器とされる)や「君の名は。」以降の物語とも繋げることができるのではないだろうか。
アニミズムに関しても同様である。藤田はアニミズムに関する先行論として岩田慶治をあげているが、アニミズムに関する議論は岩田以外にも存在するし、近年では人類学の方では議論も進み新たなアニミズムが論じられている(例えばフィリップ・デスコラの著作などがあるし、ウィラースレフのの民族誌で論じられるアニミズムなどもある)、そうした議論を踏まえる必要があるのではないだろうか。新海の作品をアニミズムと結びつけるのは藤田に限った話ではないが、筆者はむしろ人間中心主義的なのではないかと考えている。ここでは詳しく書かないが、「天気の子」では帆高はラストで人新世の本を読んでいるし、最新作「すずめの戸締まり」でダイジンが犠牲となって日本を救っている(この点は茂木謙之介も指摘している)。このような点を考えるとアニミズムという言葉を無批判に使用することで通俗的アニミズムにとらわれてしまっているように思える。原初的アニミズムという語自体が文化進化論的な考え方ではないのだろうか。
藤田の素朴な縄文人観やアニミズム観は新海誠の属性だけではなく、自身にも向けられる。あとがきで藤田は以下のように記している。
ここでいう「アニミズム的」とはどのようなことなのだろうか。北海道の開拓民は北海道民のアイデンティティを規定する一方で先住民であるアイヌの居住地を収奪した侵略者/植民地者と裏表の関係である。そうした歴史的背景を「アニミズム的」というのはかなり危険である。61ページで藤田はアイヌと縄文人を結びつけて論じている。言うまでもなく藤田にとって縄文は「土俗的」で「アニミズム」である。このように関係づけた時、縄文やアイヌへの素朴なまなざしが暴力的なものを孕んでいることに気付かされる。縄文のアニミズムもアイヌと自然の関係性もアニミズムも構築された観念にすぎない。そこを新海に限らず芸術作品に表象される存在は括弧で括って扱うべきなのではないだろうか。
古典とエロスとラブコメ
これは「言の葉の庭」を論じた章であるがページを開いて突然雪野と孝雄がセックスをしたであろうということが論じられていて思わずぎょっとしてしまった。ぎょっとしてしまったのは個人的な感情であるので差し引くとしてもかなり乱暴な議論であるように思える。もちろん、孝雄が雪野の足のサイズを計るというフェティッシュな場面はセックスの暗喩であることは論じ尽くされているし、新海自身も述べている。しかし、雪野と孝雄が抱き合うシーンから肉体的結びつきへと論じるのは飛躍である気がする。藤田が根拠としているのはセキレイの歴史文化的背景である。セキレイに性的意味があると読み込んだとして、それは結局は足のサイズを計るシーンとどうようにメタファーなのではないだろうか。
ではなぜ、突然にセックスが出てくるのだろうか。「秒速5センチメートル」で貴樹と明里が小屋の中でセックスをしたと読み込む方がまだ自然だが、「ぬくもり」という曖昧な言葉でしか論じられていない。ここでは藤田が「星を追う子ども」~「君の名は。」までの時期を古典期と区分していることがあると考えられる。序において藤田はこの頃の作品を『古事記』や『万葉集』などの古典の読み替えをおこない、セカイ期における喪失などといった対人感情を歴史や過去や文化を対象におこなわれるようになるとしている。
だとしたら古典に表象される新海作品の世界とはいかなるものなのだろうか。新海の読書歴は断片的であるし、蔵書目録も存在しないのでそこから読み取れることも限定的になってくるだろう。逆に新海誠を通した藤田の古典観が『新海誠論』からうかがえるのではないかと思う。先述したように、藤田のアニミズムや縄文は通俗的で議論を踏まえられずに使用している点がある。「言の葉の庭」の階段のシーンで風雨が強くなる場面を谷川健一を引用して風が祖霊=神の示現であり、自然の神的な力を読み取っている。ここも谷川の文章の文脈が切り取られており、風が祖霊であるということが民俗学の常識であり、谷川に新海が影響を受けているかのようである。
それ以上に、藤田は古典に古代のおおらかな性を読み取っているのではないかとさえ考えられる。「セックスに拘る」のは新海ではなく藤田なのだ。セキレイの指摘の後に藤田はセックスこそが神々を生み出す力だとしているが、『古事記』を読めば当然にそれ以外の方法で神は生まれている。「アニミズム的な段階の神道」というのが意味をとれないが、米を実らせる力を『古事記』に引き付けるなら、オオゲツヒメの物語が思い浮かぶが、もちろんセックスによって米ができたわけではない。もちろん、民間次元で小正月に疑似的性行為をおこなう儀礼は存在するが、それを指摘しているわけではないだろう。藤田は個人的にはと留保した上で新海に漢心以前の大和心を取り戻そうとした本居宣長のような胎内回帰的でエロティックな欲望の存在を感じてしまうという。それは過去の理想化なのではないか。
性への過剰ともいえるこだわりは「君の名は。」にも続く。
ここで藤田は瀧が三葉の身体に入っている時の自慰の可能性に言及しており、二次創作の存在からそれを共有している。確かに、瀧が三葉の胸を揉むシーンは「君の名は。」が地上波で初放送された時に物議を醸したが、あのシーンはラブコメのテンプレート的なシーンと言えるものではないだろうか。「君の名は。」から(正確にはZ会のCMだが)新海作品に田中将賀がキャラクターデザインとして加わったことにより、それまで風景と音楽とモノローグでアニメを語らせてきた新海にキャラクターが加わった(この点は土居伸彰も指摘している)。映画の中のキャラクターは赤面したり疑問の表情になったりそれ以前よりもより表情豊かに、言い換えれば記号的になっていった。その中で三葉が口噛み酒を売るシーンを想像する場面や胸を揉むシーンも記号的なものと位置づけられるだろう。同時期に漫画連載、アニメ化・ドラマ化された古河美希の「山田くんと7人の魔女」でもヒロインと入れ替わった主人公が胸を揉んだり服を脱いで裸になるシーンがある。「君の名は。」で同様のシーンを見た時に観客も経験の中にある同様のシーンを思い浮かべたはずである。そこには、口噛み酒を飲む場面のような生々しさはなく、ラブコメのお約束としての位置づけができるのではないだろうか。二次創作の中に描かれると藤田は指摘するが、逆に自慰という生々しい行為は二次創作の中にしか現れないとも言える。
藤田は「君の名は。」のキーワードともなっているムスビ/ムスヒを何かを繋ぐ力であるとし、キャラクターを推する気持ちや地方と都市、SNSなども全てムスビと結びつけている。更に宮水神社の祭礼から昔の祭礼は男女の出会いの場の側面もあり、盆踊りは「無礼講」の乱交状態であったと断定して書いてあるが、ここも歴史的変遷を踏まえて論じる必要があるだろう。そしてアメノウズメの逸話を紹介した上で神と性と芸能の渾然一体となった世界を藤田は想定する。これこそが藤田の古代観であると言えよう。このことが古典をモチーフに取り込んだ新海作品を論じる上で重要なフィルターとなっているのではないだろうか。
更に「君の名は。」がメディアミックスで展開されたことを伝統文化の習合と同一視している。ここでいう習合を藤田は仏教と神道、縄文と弥生を例にしている。アカルチュレーションと言い換えてもいいかもしれない。ただしメディアミックスに関しては新海誠という作家ひとりに還元するのみではなく、KADOKAWAの商業的な戦略なども触れなければいけないのではないだろうか。そして瀧と三葉が再会するシーンを、再び性的なレトリックを過剰にちりばめて以下のように論じている。
果たしてこのシーンは性的絶頂を「強く喚起」させるシーンなのではないだろうか。むしろ「神と性と芸能の渾然一体」に引きずられた藤田の恣意的な読みなのではないだろうか。それは「天気の子」でも同様で、水商売を売春のメタファーというのは分からなくもないが(それを言うと「すずめの戸締まり」の「千と千尋の神隠し」を踏まえた愛媛の民宿や神戸のスナックも売春のメタファーなのだろうかとも思うが藤田は性よりも傷が強調されているという)、須賀の事務所名「K&Aプランニング」がAV制作会社の「V&Rプランニング」を強く思わせるというのはどうなのだろうか。筆者の勉強不足でV&Rプランニングという会社を知らなかったが、Twitterで検索をしてみても「K&Aプランニング」と「V&Rプランニング」を結びつけているツイートは2つしかなかった。これは新海作品と性の結びつきというよりも藤田の古代観と性の結びつきととらえた方がよいのではないだろうか。そのため古典をモチーフにした新海作品に過剰に性を読み取ってそれを理想化された古代と接合されて論じられていると言ってよいだろう。
まとめ
本書評では藤田直哉の『新海誠論』からアニミズムや古代についての論を中心に述べてきた。貧困や環境問題、「すずめの戸締まり」についても指摘したいが時間がかかるので、それは後日補論的に付け加えるかもしれない。現在でも通俗的な民俗学や考古学イメージが漫画やドラマなどに取り込まれているが、それらを論じる際に専門の知見をつまみ食いするように引用するのは危険であるし、作品内で表象されるものは、それ以上の資料がない場合は括弧で括っていかなければならないし批判的に読み込まなければならない。新海誠の場合、批判も織り込み済みで作品を作っているように思えるが、そうした意識を持たなければ結局は批判も作品の持つナショナルな世界観に飲み込まれてしまうのではないか、それこそ藤田が危惧する日本浪漫派と新海誠の共通性のように。
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