広島は父のルーツ
みなさんは、ご先祖さまについて知りたいと思ったことはありますか?調べたりしましたか?
ご先祖さまといっても、祖父母、父母のことです。
祖父母は明治大正昭和と、激動の時代を生きてきた人だと思いますが、
私が子供の頃に、そのようなことに興味・関心がまったくなく、昔話をきいたことはありませんでした。
ところで、今日は8月6日(広島平和記念日)ですね!
私は広島に居住したことはありませんが、父方のご先祖さまが広島に繋がりがあったようです。うそか本当か知らないけれど、「江戸時代は、殿様のお医者さまだったけれど、クビになったんだ」(え?!クビ?汗)。
ということで、私と広島との繋がりを書きます。
私は、山口県宇部市という街の生まれ。大学も山口大学だし、広島県には、出張を含めても10回も踏み入れたことはないエリア。
でも、ここは、父方のご先祖さまの生まれた場所なのでした。
戸籍謄本を見ると、広島県呉市が発祥のようです。
よって、我が父が亡くなった時も、戸籍抹消手続きで、呉市役所から書類を取り寄せた記憶があります。私の祖父は、電電公社(のちのNTT)に勤務していたらしく、その背景・転居先は聞けていませんが、昭和20年8月6日には、広島市西白島というところに住んでいたとうところまで、戸籍謄本でわかりました。
西白島って、どこ?って思ったら、広島城の北側なのね。地理的によくわからないけれど、45年前、父と原爆資料館へ行った時、「おとうさんの家は、このあたりだったんだよ」と被曝エリアの地図を見ながら、教えてくれました。
そう、父は被爆者。父は運良く、原爆が投下されたときは、被曝エリアにはいなかったようですが、父のお兄さんを探して街中を歩いたってことはよく聞きました。お兄さんは、当時広島商業学校へ通っていた5つか6つ年上の学生さん。動員学徒として朝出かけたら、そのまま帰ってこなかった聞いています。朝出かけ際に、何度も、何度も、お母さん(私の祖母)を振り返りながら、勤労へ言ったと聞いています。涙がでてきますね。
昭和20年8月6日当時、祖母は広島市西白島に、子供6人(男4人、女2人)で住んでいたと聞いています。長男さんだけ動員学徒勤労中亡くなりました。
一方、祖父は、お仕事の関係で、山口県宇部市に居住していたようです。その後、祖母らは子供を連れて、山口へ移住したと聞いています。
私が小さい頃、祖母の言葉は、ほかの近所の人と話す言葉が違っていました(広島?呉のことば ご飯食べなさい→こばん、たべんさい みたいな)。それがちょっと苦手だっかな(汗)。
祖父は、東京へしばらく住んでいたので、これまた山口弁とは違う言葉を話していたので、なんか苦手でした(汗)
祖父は、電電公社を退職後、山口県宇部市の山奥に広大な土地を買って、畑を耕して、牛を飼い、生活していたと聞きます。私が子供のころにはもう牛はいなかったのですが、伯父(父の弟)は、高校生のころに牛の世話をよくやらされてねぇ・・・と、父の葬式のときに、思い出話として、ぼやいていました。そんな祖父母のところへ、お盆やお正月には、たくさんの孫たち(私ら)があつまりました。兄弟姉妹が6人もいたので、相当賑やかだったことでしょう。
そんな祖父母との思い出では、
広島のことや原爆のこと、戦争でつらかったことを話している人はいませんでした。
話していたかもしれませんが、私が幼かったので、記憶はありません。
父らが原爆手帳を持ち、祖父母は毎年8月6日の原爆記念式典には参加していたことは、私の父母からの会話で知りました。
私には、原爆の知識はありませんでした。せいぜい「ピカドン、キノコグモ、たくさんの方が亡くなった・・・・。二度と過ちを繰り返さない」ぐらい。私が通った山口県の小学校では、広島の原爆について、あまり取り上げられた記憶はありません(お父さんが被曝手帳持っているんだーと、思ったことはあるけれど、特に口に出したことはありませんでした)。
あの有名な映画「はだしのゲン」が毎年夏に、宇部市民会館で行われていたようですが、母や兄にチラシを見せても、「怖いから、行くのやめときな!」と言われ、行ったこともありません。マンガ本も読んだことはありません。父もそれについて、言ってきた記憶はありません。
あるとき父母に頼んで、「広島へ行きたい」とお願いしたら、家族4人で、広島に行くことになりました。おそらく昭和52年ころ。父が車を運転して、当時はおそらく高速道路もなかったから、下道で何時間かかったんだろう。
お目当ては、
①広島対巨人戦を見に行くこと
②その前に、原爆ドームと原爆資料館へ行くことでした。
広島対巨人戦はともかく、父はよく一緒に資料館へ入ってくれたなぁと今になった思っています。
だって、いやな記憶が蘇っちゃんだよ。自分はまだ小3か小4のころだったから、ただ単に鈍感だったからなのか、父が悲しくなるなんてぜんぜん想像はしていなかった。
悲しかったかどうかは、もう父から聞くことはできないけれど、被曝した広島の地図を見ながら
「お父さんの家はこのへんだったんだよ」
と教えてくれて、それが、原爆ドーム(旧・広島県物産陳列館)と割とすぐ近くだったことにびっくりした記憶があります。
後で知ったことでしたけれど、「家は崩れた。けれど、母(祖母)と妹二人は助かった」と聞いたことです。
ここまで、だらだらと書きましたが、
私は、
原爆の恐ろしさとか、
原爆の被害が酷かったんだ、
ということを綴りたいわけではなく(その記述は、別の方にお任せいたします)、
父方の家族が生きて、新しい地に住み、父が高校を卒業して働き、そして、母と出会い、結婚し、兄と私が生まれてきたことに感謝したい
と思っているだけです。
ご先祖さまのことを思うと、その土地はどんなところで、時代背景はどうで、、、、と想像したくなります。でも、それは、私が55歳になってから。父はもういませんし、祖父母だって、もう30年以上前に亡くなっている。だれも、当時の広島市での暮らしや、呉ではどんな暮らしをしていたかとかを知ることはできません。聞きたいと思ったときには、もう関係者はいないのです。
もっといろいろ聞いておけばよかったなぁ、と後悔しているところです。
だから、いま、できることは、
1️⃣今一緒に住んでいる母と、ときどき(できるだけ毎日)父の話をすること
そして
2️⃣ご先祖さまには毎日仏壇を拝みます。
3️⃣あとは1年に1回くらいは、広島の平和公園へ行って、慰霊碑へ行って、手を合わせること。
4️⃣ゆくゆくは、父らが住んでいたと思われる、広島市中区西白島町???を探してみたり、呉市のどのあたりに住んでいたのかを探してみたりしてみたい。探してどうなる?きっと今はマンション群なんですけれど💦、「当時はどんな景色をみていたのかな?」と想像するのは面白いし、ご先祖様との話のネタになるかもしれない?!。
ということで、
もし、ご両親が健在な方は、
今のうちに、昔話を聞いてみると、いろいろな大切なお話が聞けるかもしれませんよ!