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老いていくということ〜母が突然泣いた夜

母は昭和6年生まれの92歳。

もうすぐお誕生日で、93歳になります。

先日、叔父(母の弟)が亡くなり、お通夜と告別式に参列してきました。

母は幼少期に両親を亡くし、厳しい祖母の元で育てられました。

腹違いの姉はそれはそれは大切に育てられ、母はかなり虐げられながら育ったみたいです。

弟も弟で苦労したようですが、母はまだ10代の頃にそんな祖母から離れ、住込みで働きながらひとりで生きていく決心をしたと聞かされています。

そう、家出ですね。

それからどのようにして弟と連絡を取り合っていたのかまではよく知らないのですが、その弟である叔父には小さい頃からよく可愛がってもらっていたものです。

その叔父が老衰で亡くなったと知らせを受けた時、母はとても冷静で、その感情を私は理解できずにいました。

しばらく行けていなかった叔父の家を久しぶりに訪れ、いつも通される客間で、立派な金色の掛け布団をかけられ、ぽつんとそこに眠っている叔父のその痩せこけ変わり果てた姿を見て、母も私も泣きました。

お通夜、告別式、そしてお骨揚げ…。

母はどんな思いでそれらを受け入れていたのでしょうか。

と言うのも、『すっかり落ち込んでしまった』ような感じは全く見受けられなかったのです。

普通にいつもの日常が戻ってきていました。

週に3回デイサービスに出掛け、家ではテレビを観たり漢字クイズの本で問題を問いたり。

家事の分担は食器洗いだけお願いしていて、長い時間をかけて2人分の食器を洗います。

『家事の何かひとつは、続けてしてもらったほうが良い』

そんなことをケアマネさんにも言われていたので、うちの場合は食器洗いになりました。

母はまず夫を亡くし、それから長女を亡くし、しばらくして絶縁状態だった長男が亡くなり、今回弟を亡くしました。

残る家族は私のみです。

私しかいないのです。


* *** *** *** *** *** *** *** *** *** *


私は今、母とふたり暮らしをしていますが、決して仲の良い母娘ではありませんでした。

私は幼い頃から“親に甘える”ということを知りませんでした。

『出来るだけ迷惑をかけてはいけない』

子供心に、そんなふうに毎日言い聞かせていたように思います。

その原因のひとつは気難しい父親でした。

父の言うことは絶対。

母は口答えなど一切せず、ずっと父の言いなりでした。

もちろん私たち子供も。

そんな両親を見て育った私は、常にビクビクしながらも、『なぜ母は口答えしないのだろう』と不思議で仕方ありませんでした。

そんな父に病気が見つかり、仕事を続けられなくなり退職。

代わりに母は朝も夜も働くようになり、さらに私と母の関係性は遠いものになっていったように思います。

人は必ず老いていきます。

そしていつかお別れの日がやってきます。

私には『母を看取る』という、ひとり残された娘としての責務があります。

叔父の告別式に参列し、『母を看取る』ということが急に現実的なものになり、私に覆いかぶさりました。

まだまだ母は元気だ、まだまだ大丈夫と、何の根拠もないのに、そう過信している自分がいることに気付き、大変驚いたのです。

もう93歳…。

いつ何があってもおかしくないのに、急に恐くなり、ちゃんと看取ることが出来るのか、そのあともちゃんと見送ることが出来るのか、そんなことを不安に思い始めました。

そんなある日、母本人に異変が起きました。


* *** *** *** *** *** *** *** *** *** *


孫ちゃんの子守りを頼まれ、長男宅で一泊して帰ってきた日のこと。

帰るなり母が私にこう言いました。

母「ねえ、私、最近おかしくない?」

私「え?なにが?」

母「変じゃない?変わらない?」

私「別に変わってないと思うけど?」

母「なんかおかしいのよ」

私「だからどこがどんなふうに?」

母「ん〜なんて言ったらいいのかわからないけど…、咳がずっと出てたでしょ?
それから弟が亡くなって…、その辺りからなんか変なのよね」

私「そうなの?」

母「お母さん(私のこと)が隣の部屋にいて、ご飯作ってくれたり何か用事したりしていたら安心するんだけど…、
居ないとなんだか寂しいというか…」

そこでポロポロと泣き出す母。

母「お母さんに電話しようと思ったんだけど、かけ方がわかんなくなっちゃって…。どうやってかけるんだっけ?紙に書いてほしい…」

確かに、ボーッとしている時間が増えているなとは思っていました。

お仏壇に手を合わす時間が長くなったことは前からありました。

以前ケアマネさんと3人で話している時にその話になり、母はこんなことを言っていました。

「早くお迎えに来てって毎日お願いしてるのよ」

ケアマネさんも私もビックリして、理由を聞くと、

「もうこれ以上生きていてもあなた(私のこと)に迷惑かけるだけだし、早くもう向こうに行きたいなって…」

私は少し腹が立ちました。

「別に迷惑なんて思ってないよ?
私が一番困るのはばーちゃん(母のこと)がボケちゃうことだよ。だから毎日元気でいてくれればそれでいいのよ」

ケアマネさんも色々話してくれて、その時はそれで終わり、それからお仏壇で何を話しているのかはわかりません。

母は頑固なところがあるので、今でも同じことをお願いしているのかも知れませんね。

ボーッとしている時間が増えていること以外で気付いたことは、ご飯を食べる前と食べたあとに、たまにぶつぶつと何か話していることもあり、聞こえてきたのは何か感謝の気持ちを話しているようで。

でも私はそこまで気にしていませんでした。

私が居ないと寂しいと泣き出した母に、私も泣きそうになるのをグッとこらえながら答えました。

私「ボーッとただ座ってるだけだとそりゃ寂しくもなるよ。テレビは観てないの?」

その時もテレビはついてませんでした。

テレビだけじゃ物足りないかなと、随分前にラジオも聴けるCDプレーヤーとCDもつけてプレゼントしたことがあるのですが、結局使わず後生大事に閉まっている始末。

母には昔からそういうところがあるのです。
プレゼントしても使ってくれない。

今の家の中でのお友達は、テレビか漢字ドリルのみなのです。

母「最近ドラマやなんかは観る気にならなくてね…」

私「シーンと静かな部屋でひとり何もせずにいたら、そりゃおかしくなるよ。
私でも寂しくなるわ。
ニュースでもなんでも観なくてもいいからただ流してたらいいじゃん」

母「でも電気代がね〜」

私「は?そんなこと気にしてんの?」

母「はい」

私「テレビつけてるぐらいで大して電気代かかんないよ?」

母「そうなの?」

私「そうだよ。
ずーっと流しっぱでもいいからつけときなよ」

母「じゃあ…そうしようかな」

耳の遠い母はテレビを大音量で聴くので、いつもはヘッドホンで聴いています。

私「何か音があるだけでも違うでしょ?
私居ない時は、別にヘッドホン使わなくてもいいから」

母「わかった」

私「あのさ、ばーちゃんの歳になってみないとわからないことも確かにあるかも知れないけど、叔父さん亡くなってショックなのもわかるけどさ、いつ死ぬのかってビクビクしながら生きるよりも、いつ死んでもいいや!って思えるくらい楽しく毎日過ごすほうが良くない?」

母「うん…そうだね」

私「私はそう思うよ?」

母「はい、わかりました。ありがとね」

そしてその日、寝る前にもまた

「今日はごめんね。ありがとうございました」

と言われ、大丈夫かなと不安でしたが、翌日にはそんなことをもうコロッと忘れたかのように、テレビを観ながら歌を口ずさみ、そのあとはNHKの体操の番組を見てるのでしょうか、座りながら体操までしており。。

私としては『ん?』という感じです。

電話のかけ方を、紙に大きめの文字で受話器の絵を交えながら書き、母のガラケーを実際に触りながら改めてレクチャー。

しばらく使わずにいると、使い方がわからなくなるんですね。

ひとりの時間に突然不安に襲われパニックになったのでしょう。

しばらく夜は空けられないなと感じました。

幸いなことに、今のところ母に認知症はなく、外にひとりで出てしまうということはないでしょうが、でもそれはもしかしたら突然やってくるかも知れません。

いつきてもおかしくないのです。

認知症に限らず、思いがけない転倒や心臓発作など…、高齢の親を持つ身としては、そういう危機感を常に持ちながら過ごさないといけないんだと、改めて考えさせられた出来事でした。

今回の件で、いつまでも元気な母を過信するのではなく、いつどうなるか分からないという心積もりが必要なんだと、少し身が引き締まった思いでいます。

ただ、自分のメンタルや健康管理も必要なのです。

短い時間ですがお仕事もしていますし、子供たちの子育てフォローも私の仕事だと思っています。

ベッタリと母の側に居るのは不可能。

そんなことは母も望んではないのでしょうが。

とにかく、母の残された時間はそれほど長くはないということ。

なので、親孝行をもっとしなくちゃいけないですね。

いつ死んでもいいや!って思ってもらえるくらい、楽しく充実した日々を過ごせるように。。



最後までお読みいただき有難うございました♪

ではまた。        Tomoka (❛ ∇ ❛✿)

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