【読書の滓 1作目】早すぎる埋葬
「読書の滓」と、全人類にお馴染み、みたいな顔でシリーズものを始めようとしている底辺note野郎である。まあ、そんなことは端に退けて、これが一体何なのかを説明させていただきたい。端的に言えば、これは読書感想文である。
では、なぜ、こんな題をつけたのか。普通、夏休みの課題で読書感想文の提出を迫られても、「滓、前にまわせ!」などと暴力的な口調で言われることはないわけである。ならば、読書感想、みたいな題にした方が、読み手にも分かりやすく、良いのではないか。だが、これには理由的なものがある。
しかし、それについては面倒なので省こうと思う。
データ
題:早すぎる埋葬
著者:エドガー・アラン・ポー
訳者:佐々木直次郎
初出:1884年7月31日号 ドル新聞(米国)
from:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000094/files/2526_17682.html)
あらすじ
生きたまま埋葬される、その恐怖を、過去の事例や著者の体験を基に語る。
作者に就いて
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe,1809~1849)米国、ボストン出身の詩人、小説家。アメリカにおいて、文筆を専門に生計をたてようとした初の作家に数えられる。素行に悪名高く、名声を集めてもなお、貧困に身を置いた。後世の作家作品に多大な影響を与え、日本の江戸川乱歩は、筆名を彼の名からとっている。(写真は著者以外の何者でもない。)
読書の滓
想像してみてほしい、生きているのに埋葬されるのを。この作品には、その、生きながら死の世界、その淵を覗く恐怖が、生々しく描かれている。土が己の呼吸を止めてしまい、生きている人々の社会の籍を消失していく....
昔、トム・ソーヤか何かだったと思うが、自分の葬式を生きながらにして観るという話があった。当時は、幼心に、痛快極まりない、悪戯小僧の本懐を感じたのであるが、今は違う。
あくまで死んだことにした、のであるから、自分はまだ生きていて、社会性をもっている。孤独を感じることができれば、喜怒哀楽を所有し、何か行動をおこす体力もある。しかし、葬式なり埋葬なりが進めば、自分は、死者として、社会から葬られていくのである。戻るべき席が、消えていくのである。
そうしたとき、私は、いまだ生命を宿しつつ、死者の世界へと身をおいてしまう。死人は、何も語らず、ただ冷たいのであろう。そうして時が流れて、皆が私を完全な死人と認識したならば、私は、遂に永遠孤独の間にいるのである。
よく、行方不明になってしまって、家族や友人が捜索を放棄する、そんな事例がある。もし仮に、消えた人たちが生きているとしたら、彼らはいったい、何処の住民なのであろうか。