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【読書記録】さらば、夏の光よ/遠藤周作

 自分を好いてくれるひとを愛せたら、どれだけいいだろう。好きな人が自分を愛してくれたら、どれだけ幸せだろう。

野呂と南条と戸田の三つ巴ができた時、野呂の戸田への心情に勘づいた。
主人公の名前が周作の時点で心を掴まれたけど、最後まで読みやすくて、それでいて風景描写をとおしての登場人物の心情がすごく美しかった。野呂の独白がつらくて、共感して、久しぶりに泣いた。

「光」という言葉にはそれが明るいものであればあるほど、そこに潜む「影」の存在を否応にも感じさせる効果があると思う。
ウィリアムフォークナー「八月の光」のジョークリスマスも、「古代そのもののような光」を、救いのないほら穴のようなジェファソンの地で求め続けた。フォークナーは「光」の意味について、
「子を産むために世間体や宗教的倫理などを気にしない女リーナと結びつくかもしれない」と述べた。世間体や差別的思考に縛られない女性を光だとするなら、本作でいう「光」は、一見対象的な意味を孕むといえる。


「夏の光」が野呂から見た戸田だと解釈すると、作名からは恋焦がれた相手に「捨てられた」野呂のやるせなさや苦しみが伺える。
戸田は両親の思う世間体を守るために野呂と結婚したが、自身の人生を悲観し、塞ぎ込んだ考えから野呂の愛を拒んだ。最終的に自らの命も絶ってしまう結末を思うと、土着した価値観に翻弄された女性と言えるのではないか。しかし、「八月の光」での光の象徴とは対象的であるが、野呂は自己犠牲の精神のもと、自身が彼女の人生の杖になれたらと願った。醜い容姿で異性から相手にされなかった彼にとって、彼女は一時の光だったに違いない。
彼はタイトルどおり夏の光(戸田)に別れを告げ、10羽の十姉妹(自分自身)を冬の浅間山へ解き放って物語は終わる。
(光と影について、影を何と解釈するかでも1記事書けそう)


ただ一心にその人を想うことが愛で、それは理屈ではどうにもならないのだと思った。同じく、愛せないということも。「どうしても無理だ」という気持ちはわたしもきっと存在していて、たとえばもし全員の異性からそう思われる人は、野呂みたいに絶望して生きるほかないのか?異性に愛されることのないまま生きていくのか?聖書のとおり、ほんとうに無償の愛はすばらしいものであると言えるのだろうか。彼らへの救済は無いのだろうかと疑問は残る。

作中で、もしも南条よりも自分が先に結婚していたら、と戸田に聞いた時の野呂の心情を思って心が痛かった。そのもしもは存在しないのに、たらればにすがるほかなく、その問い掛けすらも跳ね除けられた彼は何を思っただろうか。「戸田に捨てられた」と彼が理解している事も悲しかった。受け止める強さと優しさが彼にはあったのに。
同時に、自分を投げ打ってでも純粋に一人の女性に陶酔することの出来る野呂を羨ましく、健気に思った。わたしにはそういった経験がないから。

客観的な善意は存在しないからこそ、誰かの純粋な善意はときに誰かを傷つける。善意に善し悪しはないとわたしは思うけれど、愛する人を失って鬱屈とした戸田が受け入れるには真っ直ぐで綺麗すぎたに違いない。悲劇のヒロインめいた思考から抜け出せず、最期まで塞ぎ込んでいた戸田に対する周作の怒りにも納得した。他人の純粋な善意を真っ当から受け入れるには、強さと素直さ、心の穏やかさも必要なのだと知った。
だれかの気持ちを拒絶せず受け止められるよう、そうありたいと思う。

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