ピリカおねえさんと彼とぼく【物語】
今朝のホームルームで、彼が突然、この街を去ったと聞かされた。親の都合で他県へ引っ越したのだそうだ。一夜にして跡形もなく消えた彼とその家族。どんな理由があってかは知らないが、なんというか…胸にポッカリと穴が空いたようだ。ぼく自身、そのことに一番驚いた。
クラスの男子からは口々に「佃煮、よかったな!」「佃煮のこと心配してたんだぜ」「やっとアイツから解放されて、せいせいしただろ?」と言われ、ポンポン肩を叩かれた。
ぼくの名前は佃田だ。そして、最初にぼくを佃煮と呼んだのは、引っ越した彼だった。
彼は決して良い友達とは言えなかった。乱暴者で、校則もことごとく破り、ことあるごとにぼくに命令し、拒むとガシッと首をホールドしてきた。従わないと何されるかわからないと思っていた。でも、意外にも金銭を要求してくることだけはなかった。
学校へ行くのは憂鬱だった。みんなが彼のご機嫌とりをするようにヘラヘラし、やがて、クラス中から“佃煮”と呼ばれるようになったから。
けれどあるとき、そんなクラスの男子達を彼が一喝したことがあった。「こいつを佃煮呼ばわりしていいのは俺だけだ!」
それから皆は、彼の前でそのあだ名を使わなくなった。陰では、すっかり定着した“佃煮”呼びが依然続けられていたが。
◇
学校から帰る途中、彼の家の前を通りかかったときだった。
あれ?あの犬…。柴犬っぽいけど雑種のロンじゃないか?彼の犬だ。それを、知らないおねえさんがリードを手にして家を見上げている。
あ、目が合った。
つい立ち止まってまじまじと見てしまった。下を向いてぼくは足早に行こうとした。
「きみ、もしかして、佃煮くん?」
「はい?」
なぜ、初対面の人がぼくのことを?しかも、どうして佃煮という呼び名を知っているのか?
「間違っていたらごめんなさい。ゴウくんのクラスメイトの、佃煮くん、ではないですか?」
ぼくは驚きながらも反射的に頷いてしまった。
「ああ、よかった」
彼女は途端に柔らかい笑顔になり、こちらに近づいてきた。
「昨晩ね、ゴウくんが私の家に来て、ワンちゃんときみへの手紙を預けていなくなってしまったの」
「あのぅ…あなたは?」
「あっ、ごめんなさい。私はピリカといって、ゴウくんの家の向かいに住んでいる者です。小さい頃はあの子とよく遊んでいたの」
「へぇ…」
彼にそんな年上の幼馴染みがいたなんて知らなかった。ピリカさんはロンのリードを持つ反対側の手を出して、手紙を渡してきた。
「この子、ロンっていうの。ゴウくん、きみに飼ってほしいって言ってたけど、お宅はペット飼うこと許してもらえるのかしら?」
ぼくは少し考えてから、たぶん…と答えた。小学生までうちでは柴犬を飼っていた。ロンはちょっとうちのに似てるって思っていたんだ。ぼくの犬は老衰で亡くなってしまった。それからはずっと飼っていない。ロンなら、うちの家族は喜ぶんじゃないかなと思った。
「よかった。もしダメだったら私が飼おうって思っていたの。でもうち猫いるし、私はほとんど朝から夕方まで学校で家にいないから、どうしようかなって」
ロンがピリカさんを見上げたあと、ぼくを見てワフッと鳴き声を漏らした。本当はおねえさんに飼ってもらいたいんだろうな。
渡された手紙…というか、中間テストの答案用紙の裏に、彼の字が書き連ねてある。
「佃煮へ お前にしか頼めない。ロンのこと、よろしく頼む。」
数学、85点…。ぼくより高い点数だ。
「ゴウくん、よっぽどきみのこと信頼していたのね」
「まさか、そんなんじゃ」
「アイツは見込みがあるって言ってたよ。根性あるって」
「うそだ!あんなのただの…」パシリじゃないか。
ピリカさんは、急に大声になったぼくに少し驚き、そしてふんわりと微笑んだ。
「私ね、なんとなくだけど、人の表情から未来を読み取れるんだ」
「未来?」
「うん、未来」
なぜいまそんなこと言い出すんだ?と怪訝そうな表情になってしまうぼく。
「私ね、大学で演劇サークルに入っているの。演劇は相手の呼吸や表情を読み取って、物語の結末へと導いていく。観る側になるときでも、伏線を拾い集めて、人物の行く末を想像してゆく…とでも言うのかな」
「はあ…」
「きみの表情から派生した色んなことを読み取るとね、ロンはあなたの家族に可愛がってもらえるんだろうな。そして、佃煮くん。きみは、優しく強い男になって、誰かを幸せにすることでしょう」
「ぼくが?強い男?…誰かを幸せに?」
あまりにも違いすぎていて、ピリカさんには悪いけど力なく笑うしかなかった。
ピリカさんはグンと背筋を伸ばすと、ぼくにロンのリードを託した。
「なんてったって、佃煮くんはゴウくんの見込んだ男だからね!ゴウくんのたったひとりの友達だから」
彼の友達?そんなわけない!今さら、そんな綺麗な言葉で…そんな…
「ゴウくんのこと、嫌いだった?」
ぼくはプルプル首を振った。
「他のヤツがおまえのこと馬鹿にしてきたら、俺に言え。アイツらのお前を“佃煮”って言うときの呼び方、なんか気に食わねえ」
ふと、彼の声が頭をよぎった。
ぼくは「ロン!行くぞ!」と目を伏せながらリードを引き、ピリカさんの顔を見ないまま会釈して、その場を走り去った。
それでも、彼女が切なげに優しく微笑んで、ぼくの背中を見送ってくれているのを感じた。
◇
そして春。
ロンに「いってきます!」と声をかけ走り出す。
高校生活初日の朝、枝に残った桜の花びらがひとひら、新しい制服の肩にのった。
「佃田カイトと言います。小・中学校通してずっと“佃煮”って呼ばれていました。最初は嫌だったけど、覚えてもらいやすいし、いまでは結構気に入っています。仲良くしてくれる人は“佃煮くん”って呼んでください!」
~ fin ~
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍀
この物語に登場するおねえさんは、【音声配信すまいるスパイス】で『北風ココア』を朗読してくださったピリカさんをモデルにさせていただいております😊💓
朗読の力ってやっぱりすごい!登場人物たちの背景までもがそこに滲んできます。
さらにピリカさんは、人の心の痛みを正面から受け止める強い優しさを持った方だと、ピリカさんの記事からも感じられます。
私は、佃煮くんをお気に入りキャラだとおっしゃっていただき、すごくうれしかったのです。
感謝の想いをこういう形でしか表せなくて、今回、ちょっと切ないお話ではありますが、そこに希望の光をさしてくれる人物として、佃煮くんの人生のひとコマに登場していただきました🙇