ねむの木 ねむの葉 ねむの花 【物語】
「この家のシンボルツリーはね、ねむの木なのよ」
「ねむの木って、暗くなると葉が閉じて、逆にお花は夕方に咲くっていう…」
「そうそう!よくご存じね」
大家の里子さんは、ふっくらした頬にえくぼをつくり、胸の前で手を蕾のように合わせた。
たまご焼き色した壁にチョコレート色の屋根。白い扉にささやかなステンドグラスの小窓。門の脇には赤い郵便受があって、極めつけは柵から飛び出た風見鶏。その可愛いお家は坂の下にあり、ミニバスの停留所も近い。
里子さんは言う。この家でひとりでいるのは寂しいの。でも、たくさん人がいるのもイヤなの。だから、下宿人はいつもひとりしかとらないの、と。
ちょうどここの空きがあって、私はとてもラッキーだった。
大家の里子さんは私の母より少し年上。上品な白髪に、ラブリーな模様の三角巾をかぶっている。
「ねむの木はね、いつも葉っぱかお花のどちらかが眠っているの。葉っぱは暗くなるとピタッと閉じるでしょ?その様子から、仲の良い夫婦を連想して、夫婦和合の縁起の良い花木ともされているのよ」
「へえ…」
そう相槌を打った瞬間、不覚にも目から滴がこぼれ落ちた。唇は震え、何か言ったら泣き出してしまいそうなので、いっ!と固く口を結んだ。
◇
ついこの間までの私…いや、私たちの生活。
仕事終わり、買い物袋を提げて急いで家へ帰る。彼を起こさぬようさっとシャワーを浴び、一息つく間もなく夕飯を作る。そっと彼の寝顔を覗く。ほんの一分の添い寝。ちょっと曲がった鼻筋も好きだった。でもすぐにタイムリミット。心を鬼にして彼を起こし、ご飯を食べさせて仕事へ送り出す。
あとは一人きりの時間。私はスマホでブログをチェックし、そのまま寝落ちして夢の中…。
彼の仕事が終わる頃私は目覚め、朝食を二人分作って一人で食べる。食器を洗っていると彼が帰ってくる。少し話せればうれしいが、疲れたと言いながら彼はバタンと布団に倒れ込む。私はご飯にラップをかけ、家を出る。
結婚式の日取りはなかなか決まらなかった。式場選びもはかどらず、生活だけが過ぎていった。
布団は一組仲良く並んで敷いてあったけど、私たちは一緒に寝られたことなど一度もなかった。ふたり手をつなぎながら、どちらからともなく眠りに落ちてゆく…そんなささやかな経験が一度でもあったら、生活はすれ違っても一緒にいる意味はあったかもしれない。
◇
「ねむの木は、葉が眠る頃に花が咲く。でもずっと同じ木として生きられるんですよね…なのに私は、私たちは…」
彼との記憶がぐるぐる頭を駆け巡り、私は説明も省いて里子さんの前で泣いた。
里子さんは何も聞かずに、ただ優しく私の背中を撫でてくれた。
「ねえ、見てごらん。ねむの木の葉っぱもお花も、一緒に咲いているわ」
夕方の庭、ねむの木には、開いた葉と花が揺れていた。
そしていま、家の前に停まったバスからは…。
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