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それはまるで遅効性の毒のように。岩谷翔吾著作『選択』がもたらしたもの。

サイン会で岩谷翔吾先生に「まるで遅効性の毒のようですね!」と言おうとして、「ちこうせい」をスムーズに言える自信がないと思ってやめた。普段使わない言葉だから。

この書籍を手に取って、私は久しぶりに紙の本の匂いを嗅いだ。雑誌や写真集以外の紙の本を最後に手にしたのは数年前のことで、ハードカバーのずしりとした重さが手に良く馴染む。

最近はもっぱら電子書籍と共に生活をしているせいで、DMMブックスとKindleの容量ばかりが大きくなっている。パンパンだった本棚の本は少しずつ減らして、去年全部電子で買い直してしまった。浅田次郎の『プリズンホテ』と石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』、恩田陸の『蛇行する川のほとり』なんかが並んでいた場所に、今は猫が寝ていたりする。

岩谷翔吾先生の初の書下ろし小説が発売されることを知った後、先駆けて公開されたあらすじにあった「もう、うんざりだ。殺す。絶対殺してやる」という台詞に心を奪われた。私は常日頃から、暴力とセクシーがある作品が好きだと言い続けていているのだけれど、この物語にはきっと暴力がある、そしてそれを絵に描いたような好青年の岩谷翔吾さんが書いている、もうそれだけで楽しみが募った。

実際に本が届いて、急く気持ちのまま1ページ目を捲ると、そのセリフはすぐ冒頭にあった。私は最初のページに紫色の付箋を貼った。

亮は走っていた。父を殺すために。
もう、うんざりだ。殺す。絶対殺してやる

岩谷翔吾 著『選択』P.5  

今回、電子書籍のスクリーンショットを撮る代わりに、本に付箋を挟みながら読み進めることにした。表紙と同じ紫色は気に入ったシーンや、胸に残ったセリフに。もちろんこれが1番多くなった。ピンク色は愛とかセクシーとか、『おっぱい、どう?』とかそういうものに。そして山吹色は“汚いもの”を描写した場所に貼った。これは最初は使う予定はなかったものだ。古い喫茶店に積み重ねられた黄ばんだ漫画や、散った桜の花びらを“汚いもの”として描いたシーンを読み返したいと思って貼ることを決めた。日常の中で自然と目を背けるような“汚いもの”を、岩谷先生は見たままの汚さで書く。それはたぶん、綺麗なものを綺麗なものとして書くよりも難しい。

読み進めて、私はすぐにこの本と亮という名前の主人公が好きになった。亮が据わった目で見る世界は暗くくすんでいるのに、好意を持つ相手に向ける感情は柔らかく、その人間らしさが心地よい。それでも物語が進むごと、彼が選択をすればするだけ圧迫感は深まり、気づけば逃げ道は塞がれ、亮と読者に迫る焦りが重なる瞬間が何度もある。特に終盤の、亮が30歳を迎える辺りから先は「もうここで止まってくれ」と何度願ったことだろう。物語は既に完成していて、読者には読み進める以外のことはできない。

読者として彼と接するとき、どうか救われてほしい、愛されてほしいと強く願った。だけれど、『選択』の世界にもし自分がいたとしたら、“30代自称無職の男性逮捕”という記事を暖かなベッドの中で読んで「また闇バイトか、バカなやつ」と鼻で笑うかもしれない。それで次の瞬間にはそんなニュースの内容は忘れて、友達とLINEで週末のランチの計画なんかを話すのだ。
亮は自分を裏切った蛇沼にすら、危機を察知すれば電話越しに「大丈夫か!」と何度も声をかける。友人の命を救い、仕事仲間を気遣う。私がどれだけ真面目に働いて、電車に乗れば妊婦や老人に席を譲ろうとも、切り取った場所が違えば亮の方がよっぽど良い人間に見えるんじゃないだろうか。

どうしてこうなった。いつからだ。
大切な人を守ろうとして全力を尽くしてきた。
けど、何故か一人また一人と去っていく。
俺はどこで何を間違えたんだ。

岩谷翔吾 著『選択』P.145  

物語の終盤、亮はこう独白する。その人生は24時間356日犯罪者であるわけもなく、折々に匡平や彼女の美雨と過ごす“普通”の幸せが存在して、母親へ向ける家族の情もあった。そして犯罪で得た金が彼の人生に自由と豊かさをもたらしたのも事実だ。金と女と仕事と家族と、1つ1つの選択が人生に絡みついていて、少し遡ったくらいでは軌道修正することはできない。

この物語が誠実で残酷なのは、亮の家庭環境や生活状況を愛と情をもって事細かに描く一方で、同じく生きる痛みを抱えた匡平という青年の存在を読者に示し続けている点ではないだろうか。亮には悪の道を選ばざるを得ない事情があった、では終わらせない。その曲がりくねった人生のすぐ横には、匡平が選んだ眩しい程にまっすぐな道が伸びている。

それなら、亮はどこで道を誤ったのか。どうして匡平のようには生きられなかったのだろうか。読み終わって以降、ずっと考えているけれど明確な答えはまだ出ない。

『選択』は剣と魔法のファンタジーではなく、転生せず、時も戻らない。どこまでも現実と地続きの世界が本の中にある。
ここ数年は小説よりもルポルタージュを読む機会が多かったけれど、そういった本で語られる重大事件の犯人の方がよっぽど遠くのフィクションに思えるのは、報道文学には愛も情もないからだろうか。
私が今これを書いている自宅から、電車で1時間もかからない川崎の街にはかつて亮がいたのかもしれない。そんな気すらしてくる。

世の中にはきっと大勢の“亮”がいる。それは父親を殺そうと包丁を持って夜の街を走る“亮”の姿とは違うかもしれないけれど。人生の中でいろいろな選択をして、時に判断を誤り、社会に反する方向へと向かう人たちがいる。そしてそれはいつかの自分の可能性だってある。

人には色々な面があって、700文字の新聞記事で書かれていること、あるいはもっと短い140文字でネットに書かれたことだけでは図ることはできない。そんなことはとうの昔に道徳の時間に学んだはずなのに、悪いインターネットに肩まで浸かっていると、ついそれを忘れてしまうのだ。でももう忘れたくないと思った。

この作品を読んで以降、頭のスイッチが一つ切り替わったような気がする。じわじわと、物語が日常に浸食しているのを感じる。
それは小学5年生の夏休みに赤川次郎の『夜』で初めて1冊の小説を読み切った時や、東野圭吾の『私が彼を殺した』の袋とじを開いた時のような。他では得難い読書体験となったことは間違いない。

読書感想文の最後がこんな話なのもどうかと思うけれど、私は『コードギアス 反逆のルルーシュ』を履修している方のオタクなので、

「生きてりゃなんか良いことあるかもしんねえ、やり直せるかもしんねえだろ」

岩谷翔吾 著『選択』P.11 

「生きてさえいれば、やり直せるから」

岩谷翔吾 著『選択』P.150 

という亮と匡平の言葉を“呪い”と反射的に呼ぶ呪いにかかっている。もちろんこの物語にも、そうした側面があるだろう。一瞬の肉体の苦痛よりも、辛い過去や責任も背負って生きていく方が時に困難だ。
ただそれ以上に、2人の言葉には「それでも生きていてほしい」という願いや希望が滲んでいるように感じた。
最後に亮を救うのは匡平が示したこの希望であって、そしてそれはかつて中学3年生の彼が匡平に与えた希望と同じ形をしている。亮は人生の様々な場面で選択を誤るけれど、物語の最初に匡平を救った行動は間違いにはならなかった。

最後のページにはピンク色の付箋を貼った。美雨からプレゼントされたブレスレットが千切れ、その代わりに腕には銀色の手錠が光る。物語の中で亮の腕を飾ったその両方が、彼に生きていてほしいと願う2人の愛だと私は受け取った。


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