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プロジェクトベースラーニング

先日Youtubeにて、リモートによる日本と英国の小学生のSDGsに関わる交流会という趣旨のラジオ番組収録を拝聴し、度肝を抜かれた。

前もって念を押したいのだけれど、この記事はこの動画の批判でも、出演する子どもたちを独善的に評価するのでも、ましてや「ここが変だよ日本の教育」的なひやかしをしたいわけでも決して、ない。それぞれの環境の中で、一生懸命課題をこなし、自分達の調べたことをしっかりと発表していて、日本の小学生達も、英国の小学生達もとても素敵!と拍手を送りたい。

では、何が言いたいのか。それは課題へのアプローチの仕方の違いに度肝を抜かれたという話がしたいのだ。

日本では「誰々から何々を学ぶ」という姿勢が強く、これ自体は悪いことではないのだけれど、それは「答え」がある場合に適応するアプローチだと思う。例えば、この動画では同じ水源汚染に関する問題を取り扱うのでも日本の学校では、与えられた単元の中で、先生が作成したであろうプランに則っていることが予想される。校外学習として企業に訪れ、質問をする。質問自体は子ども達が考えて準備してはいるが、ここでも答えが用意されている。そしてこの経験から新たに知ったことをプレゼンテーションにまとめ、資源の大切さへの理解が深まったと、感想を発表する。具体的な解決策を発案するまでは至らないが、それは当然である。環境問題においてはどの側面を切り取っても問題が複雑に絡み合って、その合間から更なる問題がこぼれ落ち、捉えようとする指の間からすり抜けて行く。問題全体への答えなど、今世界中の誰一人として持っていないのだ。

これに対し、英国の学校では、まず問題のマッピングから始める。そして、水源汚染の中でも自分達のフォーカスしたい問題を割り出し、それの解決に向けて仮説をたて、リサーチをする。リサーチの方法も自分達で考える。先生には方向性への助言やガイド、補助をすることが求められ、プロジェクトは生徒主体である。これを繰り返し、仮説をリファインさせていき、解決案のプロトタイプへと昇華させ、プレゼンテーションを行う。もちろん学年で精度の違いはあれど、アプローチとしては同じである。これがプロジェクト学習というものである。娘が通う公立の小学校でもここ最近、週末の宿題に「自主学習」として自分でテーマを決めて調べものをし、スクリーンショットの画像などでスライドを作り、チャチャッとクラスページにアップロードする学習が導入されているが、これはPBL(プロジェクト・ベース・ラーンニング)とは別物だ。

話は少し変わるが、小学4年生の終わり頃娘に、塾に通う友達も多いので、受験をしたいかと尋ねた。答えはYESであったが、彼女から条件が二つ上がった。英語を英語で学習できる環境と、プロジェクト学習ができる学校が良い、とのことだった。インターナショナルスクールやボーディングスクールは経済的にも、家庭の主義的にも選択肢にないが、英語の取り出し授業がある私立中学ならなくはない。志望校を探す上で第1条件はクリアできそうだったが、プロジェクト学習で私は頭を抱えた。主体性や自主性を謳った学校は多いが、具体的にプロジェクト学習となると、部活動でも見つけるの難しいのではなかろうか。

娘がプロジェクト学習にこだわったのは、上海で通った小学校での楽しかった経験からだった。通っていたのはインターナショナルスクールではなく、現地校国際部の中国語と英語のバイリンガル小学校。カリキュラムはアメリカの公立校をもとに作られ、課外ワークが多い。そこにアジア特有の詰め込み式教育も付随されていて、ダブルパンチで宿題の量が尋常ではなく、中には宿題に付き合う親の方がノイローゼになって辞めて行く子もいた。そんな話を聞いて知ってはいたが、宿題は本当に多く辛く、入学早々親子共々泣きながら深夜までえっちらおっちらやっていた。そんな彼女もことプロジェクト学習になると大いに張り切った。発表の機会はことあるごとに設けられており、サイエンスフェア、国際デー、授業内でもグループワークで海をきれいにする想像上のカニロボットを作ったり、生物多様性について調べてジオラマを作ったりしてはプレゼンテーションをしていた。

プレゼンテーションの技術も重要視されており、日課のように授業に組み込まれていた。そのほかにも週数回、一日が始まる前に行われる「SHOW & TELL」の時間がある。トピックはなんでもいい、好きなおもちゃでも、おやつでも、国でも、クラスメートに持ってきた何かを見せながら、自分にとってなぜそれが大切で、どこが良いところで、なぜ好きなのかを3分ほどでプレゼンテーションするのだ。プレゼンテーションの評価シートも細かく、挨拶があったか、声がはっきりしていたか、聞き手の目を見ていたか、わかりやすい内容だったか、身振り手振りが加わっていたか、話すスピードは早すぎなかったか、遅すぎなかったか。それに標準を合わせて前日はひたすら練習の日々であった。

その学校でプロジェクト学習に付随してプレゼン力と同じくらい重要視されていたのは科学的思考法だった。「仮説を立てる→リサーチ(実験)する→仮説を修正する→リサーチ(実験)→結論」何よりも大切なのは自分で仮説を立てるということだ。もちろん適当に仮説を立てるのではなく、ベースとなる知識(学習課題)を元にだ。娘はこの学習を私とではなくアメリカ人の夫と取り組んでいた。日本で義務教育を受けたせいか私はこのスタイルの学習方法で伴走してやることが非常に苦手で、私ができたのは拙い中国語力を総出しての、中国語学習と漢字を詰め込む作業のお手伝いであった。

それは今思えばもったいないことである。なぜならこのプロジェクト学習、よくよく考えれば、私がデザイン科の学生だったころ教え込まれていたものにすごく似ている。プロジェクト学習は、デザインのプロセスと親和性があり、根っこのところで繋がっているのだ。なのに「小学生の勉強」と私は自分に枠を設け、昔自分が経験した「勉強」はこうだったという囚われの先入観から、一緒に楽しもうとしなかったのだ。小さかった娘は小学5年生になり、こちらがどきりとすることも言うようになった。学校でのプロジェクト学習の機会はなくなってしまったが、デザインのプロセスとしてのプロジェクト学習をこれから彼女と楽しんでいけるといいなと思っている、今日この頃である。

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