精神科に行く前に肉を食え!
こんにちは、体脂肪率25%のとまよこ りゃんシーです。
「マイキンソー」やってみた
腸内フローラを検査する「マイキンソー」をやってみました。2万円で便の中の細菌を検査してくれると言うサービスです。その結果、僕は「バクテロイデーテス門」という菌が少ない事が分かりました。
コロナのニュースで「サイトカインストーム」という言葉がよく出てきます。コロナウィルスの侵入を許した後のいわゆる「あとの祭り」状態で、体中がパニックになっている状態。じつはこれ、砂糖を摂っても似たような状態になるんです。砂糖を摂ると肝臓は糖分を吸収し、血液への糖分の流出を抑えます。しかしそれが「バクテロイデーテス」というセンサーが欠乏することにより働かず、血液中に過剰に糖質が蔓延する。そうすると体はパニック状態になり、インスリンを過剰分泌させ、低血糖を起こし、コルチゾールやアドレナリンを大量放出させるようになるのです。さながら、貧乏人が宝くじを当てて動転して衝動買いばかりするような感じ。免疫がないと、体はパニックになるんです。それが続くと体は慢性的に疲労し、何もできなくなってしまう。それが「副腎疲労症候群」なのです。コルチゾールの慢性欠乏でアレルギーや自己免疫疾患などをコントロールすることができなくなり、潰瘍性大腸炎や化学物質過敏症を発症します。砂糖を食べてパニックを起こしてるなんて本当にバカの権化ですよね。また、腸内フローラが乱れ「腸管バリア機能」が破壊されると血液内に細菌が繁殖して自閉症の原因になるらしい。確かにこの瞬発力と適応能力のなさが自閉症に共通すると思う。すべては免疫の問題だったんや…
子供カサンドラの話
ところで先日益田さんの動画で、「子供カサンドラ」という言葉を初めて聞きました。
たぶん、ぼく、「子供カサンドラ」です。
てか、僕の人生のなかでこれが一番つらいことかもしれません。
とにかく、我が家は「普通と違う家」でした。益田さんは「教育格差」と言ってますけど本当にそれ。
常識も何も教えてもらえなかった。ただ二人とも自分の人生を生きてるような感じ。しかも思い込みと決め付けと差別意識が凄くて、ステレオタイプだけで物事を考える。
加えて、母は非常に性悪だった。どうすればこんなに性格が悪くなるの?というくらい性格が悪かった。そのうえ外では着飾ってちゃんとお世辞も言うのだから尚悪い。僕は二重の意味でカサンドラだった。
「気持ちを理解できない」と、「性格が悪い」が組み合わさると本当にひどい。結局、「自分しか信じない」と、間違ったことばかりするのです。しかも母はそれを反省しない。これも、発達障害とはまた別のところから来ているものだと思います。
ただ、母のような人は、「生き残る」ことに於いては、非常に優れているとは感じます。まさに、「憎まれっ子世に憚る」という言葉そのものだと思います。
「発達障害」と一言で言っても、「親が健常者」と「親も発達障害」では、生きている世界がまったく違うと思う。
それがもっと理解されればいいのに、と思いました。
結局、機能性低血糖の原因は?
僕なりに色々と機能性低血糖症になってしまった原因を考えているんです。母親や学校のストレスから来る過敏性腸症候群なのか、食生活の偏りによる腸内フローラの偏りなのか。それともうひとつ思ったのが、やはり「糖代謝回路」の問題なんじゃないかなと。エネルギー代謝には糖代謝と脂質代謝、タンパク質代謝の3種類があるらしくて、その人の摂取している食物によって代謝の「くせ」が出るらしいんですね。僕は一時期ほとんどたんぱく質や脂質を摂っていなかった時期がありまして、そのときに「糖代謝回路」に変性した、その結果インスリン抵抗性が増大した…と考えるのが一番しっくりくるような気がします。あと、軽い摂食障害があったんじゃないかと思って…。性転換の手術代を貯めるため節約してたと言うのもありましたが、基本的にあまり「飲食」が得意でなくて。小学校の時に咽頭異常感症になったこともあるくらい、消化器機能が基本的に活発じゃないと言うのと、自分を大切にできない気持ちというものがあった。「自分へのご褒美」が性転換だったので、それができなくなって、ご褒美をあげるタイミングが分からなくて、努力(我慢)をやめられなくて、結局自分が一番自分が大嫌いだったから、自分の体を大切にできてなかったなと思います。まあ自閉症の原因も腸内細菌の欠乏らしいし、自閉症の上位互換みたいなものなのかも知れませんけどね…。
僕の副腎疲労は本当にひどかったので、もしかしたら、全部が原因だったかもしれません。
発祥の背景まとめ
1 幼少期
僕は1992年7月6日に立川病院で生まれました。母が40歳だったので帝王切開でした。妊娠中毒症になったので、人工乳が多かったそうです。それから放置されてたので右の頭蓋骨がひしゃげました。
ちょうど家を建て替えたところで、僕は新築の家に住むことになりました。
父も母も発達障害傾向のある専門職。今思うと二人ともいわゆる「成功した発達障害」と言うべき人種でした。母は歌手、父はエンジニアとして、バブル期とはいえ仕事にありつけていたのは凄いと思います。
でも子育てとなると話は別。2人とも自分の世界にしか興味がありませんから、いわゆる「家族団欒」のようなものとは無縁でした。と言っても冷たい訳ではありません。2人とも自分の話したい事を喋って満足して寝るのです。母も、僕に言いたいことは言うけれど、僕の話は聞こうとしませんでした。何を言っても否定されるし、「言っても無駄」という意識がずっと刷り込まれてしまって、仕事やコミュニケーションで積極的に自分を表現できない癖がついてしまいました。特に母は更年期障害になってしまったので、ほとんど僕と交流を持ちませんでした。しかも僕よりも創価学会のほうが大切で、僕を置いて会合に行ったきり帰ってこなくて、僕はずっと泣いていました。あと、ADHDによる浪費が非常にストレスだった。外聞も悪いし恥ずかしかった。両親と行動したくなかった。今でも僕は他人に心を開けず、些細なことでも「反対のこと」を言う癖があります。相手に何かしてほしい時は真っ赤な嘘を捏造して語るときもあります。自分が得をしたいから、ではなく、否定されるのが怖いからまったく別の自分を作り上げる癖がついた、と言うのが正しいと思う。性同一性障害のせいでアイデンティティが確立できなかったのも大きいし。
祖父母と同居していましたが2人ともすでに70を超えていましたので耳も遠く、遊び相手とは言えませんでした。祖母はたまに遊んでくれて、唯一の心の拠り所でしたが、幼稚園のときに胃ガンであっけなく死んでしまい、とてもショックだった。
2 小~中学校
小学校に上がると、自分のおかしさがますます浮き彫りになって、いつもやり玉に上げられていました。ゆらゆらゆれたり、先生の説教中に休み時間になったからと遊びに行ったりしていました。クラスメートには「お前字読めんの?」と言われたり、「お前はもう喋るな」と言われたり、迫害のようなものもされていました。教師も呆れ、馬鹿にするような態度を隠そうともしませんでした。教卓の隣に座席をくっ付けられたり、廊下に立たされたり、挙句の果てに「帰れ」と言われたこともあります(言われた通り帰ったら余計叱られた…解せぬ)。悔しくて、憎くて、いつも反抗的な態度ばかり取っていました。そんな自分が大嫌いでした。両親は我関せずでした。いつしか社会すべてを憎むようになり、絶対に復讐してやりたいと思うようになっていきました。彼らに負けないためだけに勉強も頑張りました。エリートコースに乗りたいとかそういう動機ではなく、ただ「見返してやりたい」という一心で生きていました。今思えばあんなに敵意を燃やす必要はなかったんです。世の中は勝ち負けでは決まらないと気付いたのは、ずっと大人になってからのことでした。そういうわけだから、自分の「弱点」を必死に隠すクセはついていたと思います。不得意なことは避けるとか、上手い言い訳を考えて「できない」ではなく「あえてやらない」ふうに見せるとか。変わり者には変わりなくても、負けを認めることが絶対にできませんでした。
同時期、性別の違和感も感じ始めるようになりました。スカートを履く違和感、立ちションができない違和感、自分が女だという想像がまるで付かず、男女分けで男子側に入るとゴネたり、男の子用のカラーのものを欲しがって泣きわめいたり、女の子向けのアニメを嫌ったりしていました(今は普通に観ますけどね)。ある時、女子に「喋ってて楽しい男の子は?」と聞かれてポケモン好きの友達の名前を挙げたら、翌日僕がその子の事が好きだという噂が立って(あれも「いじめ」の一種なのだろうか)、非常に傷ついた思い出があります。そんなこともあって、自分が社会のどこにも受け入れられることのないままに今日まで至っています。男子にはタメ口で喋れるんですけど、女子に対してはどうしても敬語になってしまっていました。今思うと僕は「男の子なのに女の子の輪に入れさせていただいている」みたいな感覚がずっとあったんだと思います。どこか疎外感がずっとあって。それは今考えれば性同一性障害のせいでもあったし、発達障害のせいでもあった。でも幼少期はその比重が性同一性障害のほうが強めだったと思います。ある日、テレビで、「性同一性障害」の存在を知り、性別適合手術というものがあることを知りました。そのことを母に知らせると、「性別を変えたいなんて最大の親不孝だ」と言われて、母にこの悩みを打ち明けてはいけないんだと知りました。
まあ、そんなふうなことがいろいろとあって疲れたのもあり、「中学は誰も自分を知らないところに行きたいな」という思いがありました。いや、別に私立に行きたいとは思ってなかったんですけど、母が私立のほうが良いに決まってると。ちなみに小学校は国立だったんですが、それも母が是非行かせたいという感じだったっぽい。もしかして軽くお受験ママだったのか? うん…。それともうひとつ、公立中学校に行きたくなかった理由として、深い人間関係を作りたくなかったと言うのは凄くある。付き合いが長くなればなるほど疎外されていくだろう、もしかしたらみじめな将来かもしれないし、その時近所の知り合いに出くわしたら気まずいだろう、そしたら外に出歩くことすら嫌になるかもしれない、という予測はもう子供の頃から持ってたんですよね。だからなるべく、近所に知り合いを作りたくなかった、という意図は当時からすでにあったことをよく覚えています。そんなこんなで八王子の山奥の、制服にスラックスがある理系の中高一貫校を選択。私立でもあり、偏差値も低かったこともあり、理系だったこともあり、校舎も新築だったため空調管理も整っていて化学物質過敏症の僕も過ごしやすく、今思えば奇跡のように何のトラブルもない6年間を過ごせたのは本当に恵まれていたなと思います。学費と教育レベルが全く合ってない気はしたけど、まぁ仕方ないね…(笑) その頃からすでに僕は自分が「理系だ」と強く思ってたし、国語や読解が非常に苦手なのは自覚していたんですが、それを特に直すつもりはなく、将来的には苦手な部分は誰かに補ってもらえばいいと当たり前のように考えていました。と言うより、誰かが助けてくれるのが当たり前だと思っていた部分はあると思います。誰かにくっ付いてようやく一人前だ、と当たり前のように考えていました。その頃の友達とはその時だけの付き合いだと思って、浅い付き合いしかしなかったのは今でも後悔してます。
3 高校
高校生になり進路選択に迫られました。僕は最終的には独立して起業する予定でした。心の支えとなったポケモンのようなものを作るエンタメ系に関心があったのですが、専門学校には進ませてもらえなかったので、テーマパークやホテル、娯楽施設、文化に関係ある「建築」を選択。国語の成績が悪かったので文系と言う選択肢はありませんでしたし、親にも無理だと言われたのでまぁ無難な選択だったと思います。卒業は二の次でした。就活もほとんどするつもりはありませんでしたね。「もし受かれば就職しよう」といった程度。
二十歳になったらすぐに性別適合手術を始めたいと考えていたので、そのために学費の安い地方の国公立に行き、一人暮らしをさせてもらいました。これで、母に叱られることなく性転換ができると、僕は幸せでいっぱいでした。男になれば、友達を作ったり恋愛をしたり、「普通」になれるんだと思っていました。ちょっと変わり者のところはあっても、まさか発達障害とは思いませんでした。でも、今思えば、本気で自立するイメージは持っていなかったんですよね。性転換したとしてもやっぱりそれは「今より少しだけマシ」になるだけであって、まったくの「一般人」になれるというイメージはできてなかったし、男ならホームレスにもなれるし、ぐらいのレベルでものを考えてはいました。ちゃんと社会参加する気は端から無かったです。金欠になったら学生時代の友達の家に転がり込もうとも思っていたし、そういう「風来坊」みたいな生き方をする想像しかできてなかった。
その頃僕は漫画家を目指してました。ペンネームは『小松英(さとし)』。本当は田尻智のように仲間と起業したかったのだけど、僕は人と仲良くなることが苦手だった。「会社」という集団行動や組織が苦手なことは自覚していたので、一人で戦える仕事といったら、漫画家しか考えられなかった。あとは漫画家アシスタントとか、撮影所のADとか、クリエイティブで比較的フリーな仕事ならやりたいと思ってた。そういう仕事は得てして体力勝負だから、しっかり体力を作ろうと筋トレもたくさんしていた。女だと不便だから、そういう意味でも男になって身軽になりたかった。自分にはできないことも沢山あるけど、その分才能があるから大丈夫だと思っていました。今はまだ人とうまく話せないけど、性転換すればもっと自信も持てるから、そうすれば何とかなるだろうと思い込んでいた。いや、思い込もうとしていたという方が正しいかもしれません。なんとなく、自分には性同一性障害以外の「何か」がある……そんな予感は薄々感じていました。まさか発達障害と愛着障害を重ね着しているとは思いませんでしたが……なので、精神科に行くのは本当に憂鬱だったのですが……結局僕の予感は当たったわけです。
4 発病
結局、精神科では「発達障害」と言われ、「親を連れてきなさい」と言われてしまいました。
発達障害と言われたとき、そこまで酷くないと思った。人生が不幸すぎて塞ぎ込んでいるだけだと思ってた。アイデンティティがないのは自閉症だからじゃなくて性同一性障害だからだと…。けど調べれば調べるほど僕に当てはまっていて、間違いなく発達障害だと分かりました。それから僕には決定的に「想像力がない」と言う事もそのときに痛感したんです。僕の「発想力」は、言ってみればランダム出力のようなもので、それは想像力ではない。僕らの発想は経験(資料)をシャッフルして再構築するようなもので、インプットを組み替えているだけなんです。要するに二番煎じしかできない。本当のデザインとは、生まれながらに自分の頭から生まれるもので、その「軸」がなければクリエーターとして生きる軸が持てない、と痛感しました。だんだん、作るために学んでいたものが、学ぶために学ぶようになっていき、方向性が迷子になって、僕には創作は向いていないんだと悟りました。
生理痛もどんどん酷くなるし、なんで子宮を取るだけのことがいつまでもできないんだと毎月悔しかった。体調は日に日に悪くなって、過敏性腸症候群になるし、潰瘍性大腸炎になるし、特発性反応性低血糖症になるし、化学物質過敏症になるし、副腎疲労症候群になるし、大学は退学して、祖父は死に、父が要介護になりながらも、治療法を探し続けました。医者にも親にも理解されず、周囲ともどんどん溝ができていく。薬学部に行った友達が麻薬中毒の卒論を書くと言うから親近感が沸いて「きみも麻薬中毒になったの?」と言ったら嫌われたり、都心の大学に進んだ友達の大学に遊びに行って「狭い大学だね」と言ったら嫌われたりと、面白いくらいに友達が減っていき、「リオサン」以外の人からは完全に返事が来なくなりました。なんの生産性もない苦しみを10年も繰り返し、僕は痩せ細って、ボロボロになり果てた。漫画家になる夢と性転換する夢が、同時に潰れてしまって、僕の心は壊れました。性転換はおろか、働くことすら諦めなくちゃならなくなりました。体も頭も、ゴミクズだとわかったのです。僕は外側も内側も一人ぼっち。細菌たちにも見向きもされない体と言うことです。砂糖を食べなければいいのだけど、人間は糖分を摂らなければ死んでしまう。それに、低血糖で疲弊した体のためにビタミンをたっぷり摂らないといけないし、潰瘍性大腸炎のために脂分を控え、食物アレルギーや化学物質にも気を付けないといけない。そもそも糖質制限は食費が掛かる。僕はこれから、働く代わりに生活保護を受けながら、日がな一日自分の栄養管理ばかりして過ごすのでしょう。そして、遠くない未来、糖尿病か大腸ガンになって死ぬのでしょう。もしかしたら、コロナにかかってサイトカインストームで死ぬかもしれません。一応、完治と就職を目指して頑張りたいとは思ってます。資格の勉強なんかもしていますが、ブレインフォグがひどく、なかなか勉強も進みません。それでもなんとかやってみようと思います。
発達障害と診断されてから、自分の「疎外感」は全て発達障害から来ているのではないか? 実は性同一性障害ではないのではないか? と思ったこともあります。でも、もしこの性別違和感が発達障害が来ているのだとしたら、世の中の女性の発達障害者はみんな性同一性障害を訴えてもおかしくないのに、そうはなっていない。もしかして、ブスだからなのかな? ブスだから女性を名乗ることに劣等感があるのかな? と思っても、ブスが主役の少女漫画などを読んでもまったくピンと来ません。恋愛対象も女性だと思いますし、無意識のうちに女性を異性と、男性を同性と考えている自分がいます。
もうすぐ父が施設に移るので、その際に生まれた土地を売却します。一人暮らしは金銭的に無理なので母と二人暮らしをして、独り立ちでき次第ジェンダー外来に行きます。僕はホルモン治療をしていないので性別適合手術を保険適用内で受けられますが、生活保護を受けてるとどうなるんだろう。まさかタダになったりして…。せっかく性転換のために食事を抜いて貯めたお金で病気になって性転換が遅れて、本当にバカみたいだと我ながら思います。でもまあ、多分その前に死ぬでしょう。一生子宮摘出できずに死ぬでしょう。あの時、先にパッと子宮切除だけしていれば、もしかしたら就職もできたかも、発達障害でも何とか生きる希望を持って仕事をしてたかも、体力勝負の単発バイトをしながら食いつないで行けてたかも、なんて思う時もあります。まあ女性だから副腎疲労症候群が酷いという事ではあまりないのですが、そう思わずにはいられない夜もあります。もし発達障害でなかったら……。そう思うと悔しさでいっぱいなのです。少なくともこんなに辛い気持ちではなかったんじゃないか、もしかしたら過敏性腸症候群にならずに済んだんじゃないかとは思ってます。
いかがでしたでしょうか。「バクテロイデーテス」を増やすには肉類を食べると良いとの事なので、肉類を積極的に摂ってみたいと思います。
それでは、とまよこ りゃんシーでした。
参考文献
すべての臨床医が知っておきたい腸内細菌叢(内藤 裕二)
新・低血糖症と精神疾患治療の手引(柏崎 良子)
おなかの調子がよくなる本(福田 真嗣)
腸内革命(藤田 紘一郎)
腸内フローラの科学(野本 康二)
腸が死んだら、人は死ぬ(村田 博司)
乳酸菌生活は医者いらず(藤田 紘一郎)
「おなかのカビ」が病気の原因だった (内山 葉子)