受け継がれる”ばら”――劇場アニメ「ベルサイユのばら」レビュー&感想
50年の時を経て蘇った「ベルサイユのばら」。2時間に収められた物語が描くのは、4人から私たちへ受け継がれる”ばら”である。
1.早過ぎる「退場」をどう捉えるか
時は18世紀後半。男として育てられた貴族の少女オスカルは、政略結婚のためオーストリアからやってきたマリー・アントワネットの護衛を申し付けられる。スウェーデン出身のフェルゼン、そして小さな頃から兄弟のように育ったアンドレを交えた4人の運命は、革命を迎えようとするフランスで激しく燃えさかる……
革命期のフランスを池田理代子が描いた、少女漫画の歴史的傑作「ベルサイユのばら」。発表から既に50年が経過しているが、読んだことななくとも多くの人が名前くらいはを聞いたことがあるだろう。かくいう私も実際に作品に触れたことはなく、今回のアニメ化をよい機会と映画館に足を運んだのだが――驚いたのはあまり群像劇的な印象がなかったことだった。
OPで示されるように、本作は4人の人物を中心とした物語である。男装の麗人オスカルとその従者アンドレ、オスカルが仕えることとなる王妃マリー・アントワネットに、彼女と禁断の恋に落ちるスウェーデンの伯爵フェルゼン。だが、示唆に反し劇中の彼女たちの出番にはずいぶんな偏りがある。マリーとフェルゼンはオスカルより後まで生きているにも関わらず後半では姿を見せることすらなく、その最期もエンドロールでさらりと片付けられてしまうのだ。2時間の映画だから仕方ない……では済ませられないところだが、私はこれはやむを得ずというより一種の決然とした姿勢に感じられた。歴史上の人物である2人は画面に登場せずとも生きているが、この映画での役割は途中で既に終えている。「退場」していると感じたのだ。今回はこの思い切った編集が浮き彫りにしている、本作の”ばら”について考えてみたいと思う。
本映画において重要なものは何か? と言えば、おそらく多くの人は愛と自由を挙げるだろう。恋愛感情は身分や立場に関係なく生じるものであり、オスカルたち4人もまたそれに悩み苦しめられていくからだ。つまりその苦しみを超えて愛を成就させた時、登場人物としての彼女たちの存在は頂点を迎える。言い換えるなら役割を終え、舞台から退場すべき存在となる。例えばもっとも早く画面から姿を消すのはフェルゼンであるが、彼の「最後」はオスカルにマリーへの愛を認め生涯独身を誓う場面だ。彼女への思いを断ち切るため一度はスウェーデンへ帰り、家を継ぐべく結婚相手を探すためフランスへやってきたのに、それに反して独身を貫くのは愛と自由の成就以外の何物でもない。
またマリーは画面上の出番の最後はオスカル率いる衛兵隊が反乱を起こしたと知る場面であるが、主要人物としての彼女の退場は実際はもっと以前の時点だろう。考え方の違いからオスカルと決別する場面での彼女は乗り越えるべき壁にして枷の側におり、既に主要人物とは言えない。マリーの退場はおそらく二段階に分かれており、一度目はオスカルに自分は王妃である前に人間なのだと説いた時、そして二度目となるのは夫であるルイ16世に自分とフェルゼンの関係はあくまでプラトニックなものだと訴える場面であろう。彼女は身分や立場に縛られぬ恋を成就させ、更には婚外の恋愛は肉体関係を伴うものだというくびきからも自由になっている。
愛と自由を成就させた時、本映画の主要人物は「退場」する。だが、物語はもちろんそこで途切れているわけではない。最初から最後まで姿を見せ続ける人物に――オスカルに受け継がれている。
2.受け継がれる”ばら”
本映画においてフェルゼンとマリーはあまりに早く「退場」するが、その存在はオスカルに受け継がれている。いや、というより彼女たちはオスカルにとって問いである。
オスカルは特異にして特別な存在である。性別は女性だが男装しており、若くして近衛連隊の隊長まで任される俊才……一見すると彼女は世間的な束縛とは無縁な存在、つまり「自由」に見える。けれど彼女が男装しているのは父にそう育てられた結果だし、出世ぶりも貴族の子であれば当然のこと。マリーにフェルゼンとの恋愛を咎める彼女は自由どころか自分が縛られていることにすら気付けない窮屈な存在に過ぎない。彼女に反論されてその心にまるで寄り添えていなかったとオスカルがショックを受ける場面は、自分が自由と無縁で愛も知らないただの未分化な子どもでしかないと突きつけられた挫折の瞬間だと言える。すなわち、そこに答えを出すことこそ本映画でオスカルに課せられた問いなのだ。
愛とは何か? 自由とは何か? オスカルは近衛連隊の隊長を辞して衛兵隊に転属するが、彼女がそこで学ぶのは単に平民の苦しみだけではなく、フェルゼンやマリーに突きつけられた問いの答えだ。女ながら男として育てられた自分の人生はなんなのか、自分にとってアンドレとは何者なのか、自分が守るべき「フランス」とはマリーとは別個の存在なのではないか……そこにはけしてフェルゼンやマリーと同じ答えはない。男装の麗人としての自らを貫き通す決断も、苦悩の果てにたどり着いたアンドレとの愛も、地位と名誉を捨て去っての革命への参加も、全ては受け継いだ問いをオスカルが乗り越えた結果だ。「心は自由だ」という己の言葉を後には人間は髪の毛1本に至るまで平等にして自由なのだと訂正したように、王朝に対するフランス革命がそうであるように、自由とは受け継がれた大切なものを乗り越える行為そのものにある。だからこそ本映画はバスティーユ「牢獄」の陥落とそこでのオスカルの死をもって終りを迎えるのだろう。先に斃れたアンドレの元へ、死による別れすら超えて自由に愛へたどりつくその姿こそがオスカルの出した答えなのだ。そしてそれは彼女たちを見た者の心に――もちろんこれは劇中の人物に限らない――美しい花として残っていく。フランスはパリ、ベルサイユに咲いた「ばら」として残っていく。
愛と自由の下で咲いた美しき花。何度でも受け継がれ乗り越えられていく花――それが「ベルサイユのばら」なのだ。
感想
以上、2025年劇場版ベルばらの感想でした。見終わった直後は正直ピンとこなかったのですが、オスカルを演じた沢城みゆきさんのキャストインタビューや、小説家の湊かなえさんのレビューなどをパンフレットで読んでいる内に書くことの骨格が見えてきました。鑑賞後に軽く検索してみただけで「ここが映像にならなかったのか」と思うような場面がたくさんありましたし、そういったある種の豊かさが盛り込まれなかったのは残念ですが、初見の人間としては1つの物語にはなっていると感じました。
嫁入りの時にマリーは「フランス中に幸福を振りまきにきたよう」と言われていましたが、オスカルやその部下に受け継がれていく形で確かに彼女は幸せを振りまいたのだと思います。名作の一端に触れる機会をありがとうございました。
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普段はTVアニメのレビューを1話1話ブログに書いています。2025冬は「BanG Dream! Ave Mujica」「メダリスト」「全修。」の3本をレビュー中!