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成功と挫折から体得した、人と争わない5カ条―『呻吟語』の「争わない生き方」

処世訓の双璧『菜根譚』と『呻吟語』

「争わない生き方」をテーマにしたオンラインセミナーを11月8日に開催します。その講師を務めることになりました。
関心を抱かれましたら、どうぞご参加ください。
無料で、入退出の制限もありません。

最初のお詫びです。
タイトル、今回は「争わない」がだぶっています。ほかに表現のしようがなく、ご容赦ください。

先人の知恵から、心豊かに生きるヒントをいかに学ぶか。
「争わない生き方」のテーマに沿って、セミナーのコンテンツに関することを書いています。
取り上げる中国古典は、『菜根譚(さいこんたん)』、『呻吟語(しんぎんご)』、そして『論語(ろんご)』、『老子(ろうし)』です。

今回から『菜根譚』に代わって『呻吟語』を取り上げます。
『菜根譚』、『呻吟語』ともに中国、明の時代に刊行された処世訓の名著です。処世訓というと堅苦しく感じるかもしれません。自らの人生経験をもとにした「生きるヒント」集です。

『菜根譚』が公刊されたのが1591年、『呻吟語』が公刊されたのがその2年後の1593年です。明時代のほぼ同時期に処世訓の名著が世に出たわけですが、両者はそれぞれの著書の存在を知ることはなかったようです。

ここで両書についての説明を。

『菜根譚』
著者は洪自誠(こうじせい)。
書名の菜根譚は、宋代の王信民(おう・しんみん)の言葉「人常(つね)に菜根を咬みえば、則ち百事(ひゃくじ)做(な)すべし」に基づいています。「菜根」とは粗才な食事のことで、そういう苦しい境遇に耐えた者だけが大事を成し遂げることができる、ということです。

『呻吟語』
著者は呂新吾(ろしんご)。名は坤(こん)で、号が新吾ですが、吾を新にすると決意を込めたもの、と伝えられています。
書名の「呻吟」とは重病人のうめき声のこと。ただし、呂新吾自身が病気に苦しんでいたわけはなく、社会の混乱や腐敗に向けて発した嘆きを、「呻吟」という言葉に託した、ということです。

日本では、『菜根譚』が処世訓の名著として、昔から多くの人たちに読まれたのに比べると、『呻吟語』は翻訳書とされる和刻本も少なく、知る人ぞ知る存在でした。

エリート官僚の成功と挫折経験が反映された『呻吟語』

『菜根譚』の著者、洪自誠は官僚であったと推察されているものの、その生涯がよくわかっていません。それに対して、呂新吾は年譜を記した記録が残っていて、そこからどういう人生を送ったかを知ることができます。

26歳で官僚への登竜門とされる科挙試験、郷試(きょうし)に合格。次なる科挙試験、会試に合格したのが36歳、最終試験の殿試を通って進士となったのが39歳。郷試、会試ともに合格率が数%、超狭き門を突破し、エリート官僚となったのです。

以来、62歳で引退するまで、現代の日本の官庁に例えれば上級職のエリート官僚として、中央政府と地方の官庁、県知事職などを務めました(中国の県は日本の行政単位とは違い、市長レベル)。

 呂新吾は20代頃から、実務経験をもとに、知見などを書き溜めていました。その集大成が『呻吟語』です。
 有能な官僚らしく仕事の進め方や執務に関する優れた記述も多く見られ、現在にも通用する教えが少なくありません。今日風にいえば、「ビジネパーソン心得帖」として読むこともできます。

人と争わない術5カ条とは

 ともあれ、そういう経験をもとに綴されたのが『呻吟語』です。
 そこから、「人と争わない生き方」通じる所見をみていきましょう。
 最初はズバリ、「人と争わない術」です。

私は50歳を迎える頃になって、人と争わない術を身に着けた。
それは5つあって、人からそのことについて問われるたびに、「人と争わない」私流のルールを話すようにしている。
1、お金持ち(資産家)人とは、富や暮らしぶりを争わない。
2、功名を手にしたいと頑張っている人とは、地位を争わない。
3、実力以上に評価を得たがっている人とは、名声を競うことはしない。
4、傲慢な人、尊大な人とは、礼節について語ってもムダ(争わない)。
5、正義漢を自任する血気盛んな人とは、是非を論じしない(争わない)。
*『呻吟語』守屋洋 編・訳や「ビギナーズクラシック中国古典『呻吟語』湯浅邦弘著などを参考に、神田が大胆に意訳しています。

読み下し文です。

余(よ)、行年(こうねん)五十にして、五つの争わざるの味を悟(さと)り得(え)たり。
人これを問ふ。
日(いわ)く、
居積(きょせき)の人と富を争わず。
進取(しんしゅ)の人と貴きを争わず。
衿飾(きょうしょく)の人と名を争わず。
簡傲(かんごう)の人と礼節を争はず。
盛気(せいき)の人と是非を争はず。

50歳の「悟り」と「身の処し方の知恵」

呂新吾の官僚人生をみていくと、39歳で地方の知事職からスタートし、43歳で中央官庁に登用され、吏部主事に昇任。吏部は人事を司る役所で、エリート街道に乗ったかにみえましたが、硬骨な姿勢を貫いたからか、上司と折り合いが悪かったからか、昇進はストップ。ついに48歳のときに休職を願い出て、帰郷。
その後は、地方官を歴任することになります。

 こうしてみると、挫折感のなかで、呂新吾は50歳前後を迎えたのではないか、と推察されます。「悟り」とは称しているけれど、さらに上へいく道が閉ざされた現実をみすえたところで綴った「身の処し方の知恵」と受け止めてもいいのかもしれません。

お金、出世、名誉を巡る熾烈な競争

 呂新吾の心境に対する推察はともかく、彼が挙げている、争わない対象は、現代にも通じるものがあり、とても参考になります。
 お金や出世、名誉、世間の評価……これらは多くの人がよりよいものを手に入れようと努めるもの。競争も激烈です。しかし、勝者となれるのは、あるいは望み通りのものを手にすることができるのは、限られた人だけです。

 ここでいう「争わない」というのは、あきらめる、とか、はなから競争に参加しない、ということではないでしょう。
 出世レースに参加する以上は、全力を尽くします。ただ、その行きつく先は、はたしてどこなのか。
 限界や落としどころを見通して、自分なりに着地点を見い出しなさい。
それが賢い生き方、だといっているのでしょう。

礼節やことの是非については、人の上に立つ人が身に着けるべき徳のことをいっているのでしょう。それが欠けている人が、権力者や上司だったり、交渉相手だったときには、感情的にならない、無理をしない、ということ。
 粗相のないように対処するのか、権力構造が変わるまではじっと耐えるのか。現代風にいえば、転職する、独立自営に転じる、早期退職の道を選ぶといった選択をしなさい、というアドバイスに通じるところがあります。

58歳で復活を果たした呂新吾

 もっとも、呂新吾の官僚人生がここで終わったわけではありません。
 地方官としての職務ぶりが評価され、58歳で中央官庁に復帰、刑部左侍郎に昇進していています。
 彼が50歳で悟った「争わない生き方」が、その後の復活につながった、ともいえます。

 62歳のとき、中央政府での混乱が続くなか「憂危疏」という上書を出しますが、誹謗中傷にあい、病気と称して帰郷。
 官僚人生を終えた後は、退官後は、著作活動に専念するのです。

 人生の後半は「争わない生き方」を標榜しながらも、最後は硬骨漢として一本筋を通した、ということでしょう。

 次回も実務に秀でた官僚・呂新吾の価値観・考え方から、「争わない生き方」のヒントをみていきます。

 最後にご教示のお願い。
 行年(こうねん)五十ですが、50歳という実年齢のことを言っているのか、官僚人生半ばでという意味合いで使っているのか、そのあたりのことはよくわかりません。
 はたまた、孔子の人生を綴った言葉「50にして天命を知る」を意識して、自分にも大悟するとこがあった、というレトリックなのか。
 そのあたりのことについて、私見で結構ですので、ご見解をおきかせください。


これまでの投稿です。


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