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争いをしかけられても、相手にしない―『論語』の「争わない生き方」
人の上に立つ人は、人と争わないものだ
「争わない生き方」をテーマにしたオンラインセミナー、今週11月8日開催です。無料で、入退出の制限もありません。関心を抱かれましたら、どうぞご参加ください。
先人の知恵に学ぶ、「争わない生き方」。
多難な世の中を心豊かに生きるヒントを見つけていきます。
導いてくれるのは、生き方や人間関係について深い知恵が記された、中国古典の数々です。『呻吟語(しんぎんご)』、『菜根譚(さいこんたん)』、そして『論語(ろんご)』、『老子(ろうし)』。
そこには、著者自らの人生経験をもとに、一歩譲ること、戦わない姿勢を見せることが、結果として人生にプラスに働く、といった考え方が示されています。
今回は、『論語』。
「争わない生き方」を説いている処世訓の名著『菜根譚』と『呻吟語』。この2冊に共通しているのは、重きの置き方に違いはありますが、『論語』の教えをベースにしていることです。
『論語』の語り手である孔子(こうし)が、理想とする生き方は、人の上に立つ人は、徳を身に着けることでより人間性・人格を高めることにありました。常に相手に思いやりをもって接することが、「人と争わない生き方」に通じることから、『菜根譚』と『呻吟語』も大いに参考にしていた、ということでしょう。
では、孔子の「人と争わない生き方」とは?
孔子がおっしゃった。
「人の上に立つ人は、人と争わないものだ。
しいてあげれば、弓の競技ということになろうか。射場にのぼるときも降りるときも、互いに会釈して先を譲りあう。競技が終わると、勝者が敗者に罰杯を差し出す。
これこそ、人の上に立つ人同士の争いにふさわしい」
古代中国において「士分」以上の身分だった人々には、六芸(りくげい)の教養が必要とされていました。射(弓術)は、そのひとつ。
孔子のそのことに引き合いにして、弓の競技、勝敗のために全力は尽くすが、その前後においても相手に対する礼儀は欠かさないし、試合が終わったらノーサイドだよ、と言っているのです。したがって、勝敗をめぐって、相手を怨んだりしない。
武術・武道の精神の原点をみるようです。
ちなみに、六芸とは、礼(道徳教育)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬車を操る技術)、書(文学)、数(算数)のこと。今日的に言えば、知育、徳育、体育をまんべんなく修めることです。
読み下し文です。
子(し)曰(いわ)く、
「君子(くんし)は争(あらそ)う所(ところ)なし。必(かなら)ずや射(しゃ)か。揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而(しこう)して飲(の)ましむ。その争(あらそ)いや君子(くんし)なり」。
孔子はまた、利害が複雑絡む組織や共同体などにおいて、争うことはしない、と述べています。
孔子がおっしゃった。
「人の上に立つ人は、誇りをもっているが、人と争うことはしない。
まわりの人たちと協調はするが、徒党は組まない」
孔子が説く行動原理はわかります。
では、利害が絡むことがあっても、争うことなくまわりとうまくやっていくには、具体的にはどうすればいいのか。
その答えは、ケースバイケースで一様ではないし、自分で見出さないといけない、ということでしょうか。
読み下し文です。
子(し)曰(いわ)く、
「君子(くんし)は矜(きょう)にして争(あらそ)わず、
群(ぐん)して党(とう)せず」。
『菜根譚』や『呻吟語』にも、争わないためには、相手の非をことさらに責めない、という戒めがありました。
あらためてすごいなと思うのは、紀元前の春秋時代に、孔子がそのことを指摘していたことです。
時代や環境の変化とともに、人との関わり方は変容しますが、根源的な関わり方には、普遍の原理がある、という見方をしてもいいのかもしれません。『論語』の言葉をみてみます。
孔子がおっしゃった。
「自分については厳しく反省し、他人には寛容な態度で臨む。
そうすれば、人の怨(うら)みを買うことも少なくなる」
他人に寛容な態度で臨むこと、それが肝要です。
ただ、ここで孔子が触れているように、そして、これまでもみてきたことですが、寛容な態度で臨んだからといって怨みを買わない、という保証はありません。
怨みを買うことは少なくなるのであって、「もうそのことは気にしていません」と相手が口では言っていても、人の胸中までははかりしれないところがあります。
そのことは留意しておきたい。
読み下し文です。
子(し)曰(いわ)く、
「躬(み)自(みずか)ら厚(あつ)くして、薄(うす)く人(ひと)を責(せ)むれば、則(すなわ)ち怨(うら)みに遠(とお)ざかる」。
同じように、怨みを買わないために、とはいちいち断っていませんが、相手に責任を押し付けない、責任はすすんで自らとるべきもの、と説いている言葉があります。
孔子がおっしゃった。
「人の上に立つ人は自分で責任を引き受ける
頭はいいが徳の少ない人は、責任を他人のせいにしたがる」
読み下し文です。
子(し)曰(いわ)く、
君子(くんし)はこれを己に求め、
小人はこれを人に求める。
人のためにと思ってする忠告が、届かないときは
『呻吟語』で引用していた、孔子の忠告に関する戒めの言葉も、みておきしょう。
子貢が友人との付き合い方についてたずねた。
孔子はこたえられた。――
「真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告し善導することが駄目だったら、やめるがいい。
無理をして自分を辱しめるような破目はめになってはならない」。
人のためによかれと思って、その人の領域に踏み込んで、あれこれとアドバイスしたい。そういう思いに駆られます。
しかし、相手が受け入れてくれない、耳を傾ける心の余裕がないのだ、と見て取ったら、それ以上は関わらない。そっとしておく。
相手の関係を損なうことになっては、元も子もないではないか、ということです。
それまで親しくしていた人や家族、あるいはスタッフとの信頼関係に、ひびが入り、損なわれるのは、本人がよかれと思ってしたアドバイスや忠告が、ありがた迷惑と受け止められてしまうからです。
相手との距離の測り方、難しいですね。
子貢(しこう)友(とも)を問(と)う。
子(し)曰(いわ)く、
「忠告(ちゅうこく)して之(これ)を善道(ぜんどう)し、不可(ふか)なれば則(すなわ)ち止(や)む。
自(みずか)ら辱(はずか)しめらるること毋(な)かれ」。
参考までに、まわりから争いをしかけられても相手にならない、という孔子の弟子・曾子(そうし)の言葉もあります。
曾子が語った。
「素晴らしい能力に恵まれていても、他人の忠告に耳を傾けることを心がけている。
豊かな知識・教養を身につけていても、他人の意見をたずねるようにしている。
自分の能力を誇示せず、知識・教養をひけらかさない。
まわりから争いをしかけられても、相手にならない。
かつて私は友人たちとともに、そういう修養に励んだものだった」
ここでいう争いは、互いを競うための弁論、論争のこと。ためにする論議をふっかけられても、そうだね、あなたの言う通りかもしれない、などと相手の心証を害さないように対応している、ということでしょう。
かなり知的・道徳的レベルの高い人の行動指針です。
一般的な、言いがかり、クレームなどへの対応の心得としては、どの程度参考になるかわかりませんが、常に謙虚な姿勢で人に接することが、争いへ発展することを防ぐことになるのは、間違いありません。。
読み下し文です。
曾子(そうし)曰(いわ)く、
「能(のう)を以(も)って不(ふ)能(ふのう)に問(と)い、多(た)を以(も)って寡(か)に問(と)い、あれどもなきが若(ごと)く、実(み)つれども虚(むな)しきが若(ごと)くし、犯(おか)さるるも校(こう)せず。
昔者(むかし)、吾(わ)が友(とも)、嘗(かつ)てここに従事(じゅうじ)せり」。
訳出は意訳しているものがあります。
「争わない生き方」の原則を学んだら、自分で考えなさい
『論語』が説く実践哲学は、物言いが極めて簡潔で、本人の心がまえについては鋭い指摘がされているのが特長です。その分、相手との関係性の作り方や、どう行動に移すのか、ということに関して、具体的な言及が省かれていることが少なくありません。
「争わない生き方」のヒントは、先人の言葉を参考にしながら、考えることで、自分にふさわしいものを自ら見い出していくのがいい。そういうことでしょうか。
『論語』は、人としての踏み行うべき道、徳や仁について語った言葉の宝庫です。 noteに『論語』の言葉を数多く投稿してあります。
本来なら「争わない生き方」に関する言葉を数多くピックアップして、提示しないといけないのですが、まだ、テーマ別に内容を整理することができていなく、不案内で申し訳ございません。ご了承ください。
次回は『老子』が説く「争わない生き方」に触れて、終わりとします。
『老子』は難解なこともあり、理解不十分な内容となるかもしれません。
ご了承ください。
これまでの投稿です。