「感情」は個人が持つ命そのもの
感情とは、個人が命と同じように、最も大切な核とも言える部分。
先日卒業したコミュニティの実態が見えたこのタイミングで、感情についていろいろ考えました。
感情には、これまで経験してきた様々な体感的記憶が集約されている。
その集められた記憶を頼りに思考を整え、物事を判断・決定する。
だけど、そんな自分の感情としっかり向き合うことがなくなると、誰かに寄りかかりたくなる。これは後に思考停止を招きます。
人はすぐに理解できるものを好む傾向。
複雑に絡むものを理路整然と話す誰かが用意した情報。
これを正解と判断しがちです。
その正解と判断したものに対して心の底から納得できているか?
理解はできてもこの納得感が不足していれば、それはニセモノの感情に支配されているということです。
思考停止を経て、感情を蓋にする。
その蓋の上には、自ら同調した他人の意向が居座る。
つまり、自分軸とは真逆の他人軸。
自ら「誰かに決められる」道を選ぶことで、真の自由から遠ざけているのです。
自由は制約がないから何が正解なのかわからない。だから不安で寂しい。
そのネガティブな感情を誰かに埋めてもらおうとする。
もちろん、時には誰かに甘える必要があります。
それが心に潤いを取り戻し、活き活きとしていられる理由になるから。
だけど、そのときに相応しいタイミングや相手を選ぶこと。ここが重要に思えます。
結局はバランスを整えること。
この手間をかけた上で、自分の本心という声なき声を受け取り、理解できるようになるのです。
(本心を聞く行為は、わたしも普段からやっていることです)
こうやって地道に自分と向き合うことで、
本心・感情を少しずつですが、大切に思えるようになりました。
唯一無二である自分の命は自分で生かす。
そして輝かせる。
その光を、わたしはこうしてnoteのテキストに与え、残している。
第一に自分のため、その次に画面の向こうにいる誰か。
もちろん受け取り方は人それぞれですが、
わたしの記事にスキを付けてくださるのは、やはり嬉しいものです。
「ちゃんと届いたんだな」と、心から安心できます。
命は人間の体に、感情は個人の心にそれぞれ宿る。
その感情は命と同じく非常に価値あるもの。
自分を大切にするにおいて、本質的な解ではないかと、あくまで個人的な考えですが、
現時点ではそう結論付けます。