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「人が怖い」を再考してみた
5月に出した記事の再考版です。
何が正解かわからない。
曖昧で複雑のものの中から選び抜くのはとても困難なこと。
人と関わる時間や人数が増える分、自分との違いに触れるのは当たり前のこと。
これを、以前のわたしは自分に対する人格否定と決めては傷つきました。
自分が感じていること、考えていること、
信じていること。
これらが共感されなければ、否定・攻撃と受け取った当時のわたし。
人が怖い→違いを認めたくない→自分にしか興味がない→そんな自分を誰か無条件に認めてほしい
誰かと共に生きるというより、自分の思い通りに合わせてほしい。
これは、無意識下の自分が強く望んだいたことです。
いわゆるインナーチャイルドやアダルトチルドレンと言われますが、これまで何度も記事にするくらいだから、わたしも該当者と言えます。
(ここでそれを言うのは初めてです)
わたしの場合ですが、違いを恐れるのは、
親から既にその違いを否定されたり、嘲笑された経験があるため。
よその子と比べて違いがあれば正す。
そんなつもりだったかもしれません。
ただ、否定はするけど理由を説明しない。
中身が見えないままの否定は心に傷を入れ、繰り返すことでその傷を抉る。
これが深く刻まれたため、人と関わる際に触れる違いに対して、過敏に反応したんだと振り返ります。
主にそうしたのは母親。
その母親は現在ようやく説明能力を上げてますが、時間は戻らないし、わたしは許さないままです。
(現在の仲はわたしが境界線を張ってるため、事務的な会話はスムーズにいって対等です)
ここまで書くわたしは時々その違いに触れるときに反応はしますが、ほんの少しで済んでます。
(関わる)その人の世界観を見てみたい。
違いの中身を少しでも知りたい。
それはつまり、他人に興味を持っているということ。
違いを知り、考えて、概ね理解する。
このステップを踏むことを自ら選ぶか否かで人間関係の質が変わる。
環境移動をしてから学んだことのひとつです。
違いを認める勇気を持つ。
この気持ちひとつで、考え方からやがて人生をも変える。
これも経験上、そう言い切れます。
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