【歴史小説・中編】花、散りなばと(3)
この小説について
この小説は、室町時代の奈良を舞台にしています。
登場人物は、大乗院門跡の経覚。
そしてそれを支える、衆徒の大名・古市胤仙。
大乗院は、有名な興福寺の塔頭です。今でも奈良に庭園が残っているほど、大きな勢力を誇っていました。
古市氏は、筒井順慶で有名な筒井氏の宿命のライバルです。
しかし古市は、筒井と室町時代を通じて死闘を演じた挙げ句、ほぼ滅亡させられることになってしまいました。
そのため、戦国時代の大和にもほとんど登場しません。
しかし、胤仙とその息子の胤栄、澄胤はいずれも魅力的な人物です。
本編の主人公の経覚と合わせて、もっと歴史好きに知られてもいい、知ってもらいたい、という気持ちでこの小説を書きました。
一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
どうぞよろしくお願いします。
本編(3)
丈高く生い茂った葦の間を、平礼烏帽子に半首をつけただけの頭が、いくつも泳ぎ抜けていく。
手にした薙刀や長巻の穂先が、夏の煮えるような陽射しを受けて、毒々しく閃いている。
古市の中間若党からなる徒歩の軍勢である。岩井川の浅瀬を踏み渡り、対岸の葦原を音もなく突き進んでゆく。
経覚は、得美須の丘からそれを見下ろしていた。
傍らに立つ胤仙は、大袖付きの胴丸鎧、篠籠手に佩楯を身にまとい、飛龍の前立のついた筋兜をかぶっている。興福寺の衆徒らしくもない武張った姿だった。
「あの丘の裏側にいる筒井勢は、我が方の動きに気がついておりませぬ」
刀傷のある太い指で、白毫寺の方角の小山を示してみせる。そのさらに向こうには、緑の色濃い春日野の森が広がっていた。
「奇襲か」
「筒井は、強うございます。今は自らの戌亥党ばかりではなく、中川党の箸尾、長谷川党の十市、南党の楢原なども味方につけている。全て併せれば、数千の兵を動かすこともできましょう。我らはその何分の一でしかない」
「だからこそ、わしの名前と顔が必要なのであろう」
僧綱領の内へ首を縮めつつ、横目を投げてみせた。
「名としては、充分でございます。ただ僭越ながら、実の力としてはまだまだ足りない」
「それで馬借どもをそそのかし、奈良を襲わせているのか」
我ながら、険を含んだ声音になっていると思った。
「感心せんな。無体極まりない野伏、足軽の類いを使って、南都へ討ち入らせるとは。衆徒の一人として、心が痛まぬのか」
「畠山殿のご意向なれば、軌を一にして動くことこそ肝要かと」
三管領家の一つ畠山氏は、武家の覇権を巡り、同輩の細川氏と激しい勢力争いを繰り広げていた。その一環として、京の膝元である山城国で馬借を煽り立て、徳政一揆を起こさせるという奸策まで弄していた。
胤仙は、この大和で同じことをしているだけだ、とうそぶいているのだ。
馬借は、大和山城はもちろん、河内、近江まで頻々と行き来している。街道の要地を抑える古市は、彼らの根城の一つであり、胤仙はその大親分とでも呼ぶべき男なのだ。
「播州、決して間違えるなよ。そなたたちの力も、寺門の衆徒としての立場があればこそじゃ。自ら拠って立つ足場を掘り返し、気がつけば墓穴になっていた、などということだけは、くれぐれもないようにいたせよ」
経覚の言葉にも、胤仙はうるさそうにうなずいてみせるだけだった。両の瞳は、ずっと川と丘を越えた先へ注がれたままだ。
「ご覧じあれ。煙が立ちましたぞ」
籠手の前腕を伸ばし、弾む声とともに指さしてみせた。
「あそこの村に、筒井方の甲百名ばかりが集まっている。宿や食事も供されているとのこと。これもやはり、馬借どもからの報せにございます」
「火を掛けたのか」
「連中に手を貸すのであれば、地下の者であろうと敵。それに筒井とて、幾年も我らに対して同じことを繰り返しております」
返事も待たずに踵を返し、早くも高台から降りてゆく小口の方へ急いでいた。
「拙者と馬廻り衆で斬り込みます。ご門跡はあとからお輿にて、ごゆるりと」
「播州、聞けいっ」
「あと数日もすれば盂蘭盆です。我らが郷の風流は、奈良にもおさおさ劣らぬどころか、はるかに勝るものと考えておりまするぞ」
左腰に吊られた銀銅蛭巻拵の太刀が揺れ、八間草摺に触れて骨のような音を立てていた。
その宵、経覚は迎福寺へ帰ると、人を遠ざけて塞ぎ込み、湯漬けも食わずに日記をものしていた。
蒸し暑いので襖障子を開け放っていたところ、惣領館へ遣わしていた畑経胤が構わず上がってきた。何やら函形の木棚を手に提げている。
「春藤丸様からにございます」
輪文様の緞子を取りのけてみると、丸くたわめた竹ひごの骨に斐紙を張った小さな灯炉が、二段にわたって六つ並んでいた。その中には既に火が入っており、夢の中のようにぼんやりとした光が広がって、縁側がにわかに明るくなった。
「盂蘭盆会の先触れの品、ということでございました」
「小憎いばかりのことをするの」
言いながらも、経覚は頬が緩んでくるのを止められなかった。
自分が胤仙とともに合戦へ出かけ、気が荒んでいるのを慮ってのことであろうか。そうであれば幼さに似ず、人の心の機微を悟った、末恐ろしい風趣というものである。
~(4)へ続く