【歴史小説】天昇る火柱(9)「宗益」
この小説について
この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。
彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。
そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。
その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全てを捧げる驍将、畠山尚慶。
弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
本編(9)
曲がりくねった木津川の水面が、ぎらぎらと日を照り返している。
右手に笠置の山並みを望みながら、馬の背に揺られていた。
真新しい褐色の直垂が、どこか面映ゆい。古市では、小袖袴に萎烏帽子を引っかけているばかりだったのだが。
「さすがお武家です、サマになっとりますな」
平礼に手細一枚きりの小者が、馬の轡を取っている。こちらを振り返りもせず、おざなりなおべっかを言うのだ。
「猿丸」
新兵衛は苦笑いを浮かべ、鞍上から声を落とすしかなかった。
「そなた、まだあの時のことを怒っているのか」
他でもない。荒縄で後ろ手に縛り上げ、厩の藁山へ放り込んだ時のことだ。
「いやいや。新兵衛どののお立場でしたら、無理からぬことでさ」
かぶりを振りつつ、横目でぎょろりとこちらを仰いできた。
「しかし、あそこまでなされずともよかった」
「まあな」
「なぜなら、わしはとっくに、澄胤様から事の仔細を聞かされておりましたので」
枇杷庄で木津川の流れを離れ、巨椋池の方へ向かって北に折れた。伊勢田から町場を抜けて宇治橋を渡り、五ケ庄の村落へ向かう。
「沢蔵軒さまは、このような所に詰めておられるので」
「そのはずだ。宇治郡の守護代として、在京していない間はここにいると聞かされている」
心なしか、おのれの口ぶりも張りつめていた。
何しろ、兄と対面するのはもう五年ぶりのことだ。京兆家で指折りの大将となってからの姿を、自分は全く知らない。昔から全てが変わっていたとしても不思議はなかった。
馬を降りた二人は、水堀と土塀を巡らした屋敷の周りまで来た。腕木門の前に、赤茶けた腹当と半首をつけ、薙刀を手にした男が立っていた。
「もし、沢蔵軒さまにお目にかかりたいんじゃが」
番士は胡乱げにこちらを見回してから、手の甲を振って追い払う仕草をした。
「まるで相手にされとらんようで」
「そなたの風貌が、浮浪の者にしか見えないんじゃないのか」
「立派なご主人が、そちらに控えておられるでしょうがイ」
猿丸はペッとつばきを吐き捨てた。
「大和の古市播磨公より仰せつかって参った。宗益殿とは旧知の間柄ゆえ、すぐに取り次いでほしい」
新兵衛の改まった言葉にも、番士は当惑の面差しを浮かべ、首を横に振るばかりだった。
「おいおい兄さん、こちとらはるばる大和から山越え川越えてやってきたんじゃぞ。どうにかしてくれんと、手ぶらじゃ帰れんのだよ」
「いくら問い詰めても無駄ですよ」
頭上から涼しげな声が降ってきた。ふと見上げると、陽射しの逆光になって、いつの間にか版築塀の上に腰かけている姿があった。
「声を発せない者を、番につけているのです。問答無用ということでしょう」
人影がこちら側へ飛び降りてきた。
道の真ん中へ軽々と着地したのは、高く巻き立てた慈姑頭、三本橘の大紋に太刀を佩いた若武者だった。女と見紛うような長い睫毛と、妙にしなのある薄い唇をしている。
「拙者は赤沢新兵衛尉長経、こっちは馬方の猿丸と申す」
「馬と猿、フフッ」
微笑む口元に、冷たい愛敬が宿っていた。
「宗益殿の弟、いや、養子御が来られるのはわかっていました。だからここで、あなた方を待っていたというわけです」
養子。
兄はその話も、忘れずにいてくれたのだ。
「古市からの書状も、ここにしかと預かっている」
直垂の袖袋から、奉書紙の包みを取り出してみせた。女顔の若武者は、両手を腰の後ろで組んだまま、封紙の宛名書きを覗き込んでいた。
「そういうあんたは、何者なんだ」
「これは失礼いたした。細川京兆家内衆、薬師寺与一元一と申す」
「薬師寺と言えば、摂津守護代の一族ですぞ」
猿丸が耳元で声を潜めてきた。
「ずいぶんと名前に一の多いことだ」
ほほ、と薬師寺与一は手の甲を口元に添えて笑った。頬を染めているようにも見える。
「何事も、常に一番、でなくては気が済まぬもので」
番士へ何やら手振りをしてみせると、相手はあっさりとうなずき、背を向けて閂を外した。
薬師寺与一は招じ入れるでもなく、ひとりでさっさと内側へ行ってしまった。大和者の二人は顔を見合わせていたが、また門が閉じられてはかなわないので、恐る恐る屋敷の庭へ足を踏み入れた。
さして広くもなかったが、廊に沿って池が設えられていた。そのほとりで一人の男が膝を折ってしゃがみ、緑青色に濁った水面をじっと見つめていた。極めて大柄で、熊と見紛うほどである。
頭をきれいに剃り上げ、赭色の直綴を身にまとっている。しかし、その姿を忘れてしまうはずもなかった。
「兄上」
弾け飛ぶような新兵衛の声に応じて、大男がのっそりと振り返った。
鋭く切れ上がった目尻に、ぴんぴんと硬そうな虎髭は、昔とまるで変わらない。
「おう、やはりお前であったか、新兵衛」
地を這うような太い声音だった。立ち上がり、ゆったりとこちらへ向かい合う。巨木がいきなり生い育ったように影が落ちた。
「久しぶりで、……ございます」
「硬い硬い」
空を仰いでがらがらと大笑する。張りつめた弓弦が、ふっと緩んだ感じがした。
「噂は聞いておるぞ。先日の筒井党の押し込みでは、見事な働きであったそうな」
新兵衛が答えられずにいる間も、兄は独り決めにうなずいていた。
「楠葉新右衛門の跡を継ぐ、という雑説も耳に届いておるが」
「そんなことはない」
「そうか。ならば約束通り、このわしの養子となってもらおう」
大股でこちらへ歩み寄り、袖口から大きなたなごころを突き出してきた。
新兵衛は、その手をまぶしく見た。ごつごつとして厳めしいが、あちこち白く固まった傷痕が膨らんでいる。今に至るまでの、只事ではない兄の苦闘を物語るかのようだった。
「父上」
新兵衛はそう呼びつつ、いたわるように両手で握り返した。
昔と変わらない和やかな笑みが、陰になった日輪のようにこちらを見下ろしていた。
「ずいぶんと長く待たせて悪かったな。しかしそのおかげか、お前も悪くない面つきになった」
「これより赤沢新兵衛尉殿、めでたく鬼の赤備え、泣く子もさらに泣きわめく、赤沢党の一員となられまする」
傍らに立つ薬師寺与一が、わざと戯れめかして仰々しく述べ立てた。
ぎょっと目を見開く新兵衛めがけ、宗益と与一は揃って、容赦ない哄笑を浴びせてきた。
~(10)へ続く