【歴史小説・中編】花、散りなばと(7)
この小説について
この小説は、室町時代の奈良を舞台にしています。
登場人物は、大乗院門跡の経覚。
そしてそれを支える、衆徒の大名・古市胤仙。
大乗院は、有名な興福寺の塔頭です。今でも奈良に庭園が残っているほど、大きな勢力を誇っていました。
古市氏は、筒井順慶で有名な筒井氏の宿命のライバルです。
しかし古市は、筒井と室町時代を通じて死闘を演じた挙げ句、ほぼ滅亡させられることになってしまいました。
そのため、戦国時代の大和にもほとんど登場しません。
しかし、胤仙とその息子の胤栄、澄胤はいずれも魅力的な人物です。
本編の主人公の経覚と合わせて、もっと歴史好きに知られてもいい、知ってもらいたい、という気持ちでこの小説を書きました。
一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
どうぞよろしくお願いします。
本編(7)
十月朔日はよく晴れていた。
金剛経の講が終わった夕べである。秋の田の刈穂を焼くにおいがきつく漂い、暮れ残りの赤光とともに書院へ入り込んでいた。
畑経胤が迎福寺まで顔を出し、
「昼から館の方で、騒ぎが持ち上がっております」
と伝えてきた。簀子縁に伏せた鬢は、既に白いものが目立っている。
「騒ぎとは何じゃ」
経覚は、日記をしたためる手も止めずに答えた。
「惣領様が、一門衆、郎等若党、下人所従に至るまで、一人残らず広庭へ集めよとの仰せで」
そこで初めて、筆の先をぴたりと止めて顎を上げた。墨汁が毛束を伝って紙面に膨らむ。
「童子、何をいきり立っておる」
「故播磨公様より伝来の『矢ハキ』なる太刀が、一夜のうちに失われたとのことです」
経覚もすぐに思い当たった。銀銅蛭巻拵の華麗な一振り。茎に「矢ハキ」の銘が切られているため、いつしかその名で呼びならわされていた。
先代のころより変わらず、会所座敷の飾り棚で、鹿角の刀掛けに横たえられていた。今となっては、古市惣領家の宝であり、勢威の証と言ってもよい品物である。
「昨日、女房衆が掃除へ入った時には、間違いなくそこにあったというのですが」
「春藤が、自分で目にしたわけではないのか」
「はあ、それは。近ごろは客人も少なく、宴も滅多にないため、あまり会所そのものに立ち入られません」
「三十を前にして未だに童形では、来たがる客があっても迎えられまい」
あきらめに歪んだ微笑で、皮肉を言っていた。
「まず、館の内を隈なく捜し尽くすことじゃ。大ぶりで派手な太刀の隠し場所など、おのずと限られてくる。外へ持ち出されておらずば、いずれは見つかるものよ。門も木戸も固く閉ざし、春藤自身が心当たりの場所を一つ残らず検めることじゃ。それはもうやったのか」
畑経胤は目を伏せ、大きくかぶりを振った。
「敷地で見つからなければ、下手人は昨夜の間に出入りした者に限られよう。誰も彼も一ツ所へ集めずとも、人を絞って虱潰しにすればよい」
「惣領様はむしろ、館の中にいる者をみんな怪しんでおられます。一人ずつ順に、昨晩から今朝に至るまでの行いを全て述べさせ、長々と尋問を続けておられます」
「何たる悪手か」
経覚は拳を振り回しながら吐き捨てた。硯に置いた筆の尻骨を叩いてしまい、咄嗟に抑え込んだが、袖まで墨が飛び散った。
「門主様がおん自ら赴かれ、ただ今仰せになられた通りに、惣領様を説諭してはいただけませぬか」
「家の内々の話であろう。この程度のこと、おのれひとりで裁き切れずに何とする。わしが出てゆけば、あんまり大事になるわ」
まだ袖口の汚れを気にしながら、経覚は腕を組み合わせていた。
「それに春藤は、今もってあんななりだが、いい加減に一人前の惣領として独り立ちせねばならん。生みの苦しみ、というものを、身に染みて味わわなくてはならん」
「しかしこのままでは、全く逆の行く末になってしまいます。恨みを買い、軽んぜられ、前髪惣領、と陰口を叩かれ続ける」
「蔵人」
「はっ」
「胤仙の刀は、確かになくなったのだな」
「はい」
「何者かが盗み取った、ということは間違いないのだな」
黙ったまま、その場にゆっくりと平伏した。
「真に責められるべきは、その盗人だけじゃ。言うなれば、惣領への叛意を見せつけておるのよ。京や奈良ほどに広くもないこの古市で、いつまでも隠れていられるものか。召し取られさえすれば、悪いのは春藤ではなく、その盗人の方であるとはっきりするわ」
その晩、惣領直々の取り調べは夜半まで続いたが、それぞれが互いの証人となり、ついに怪しい者は見つけられなかったという。
十日ほど経っても、一向に下手人につながる手掛かりは出てこなかった。春藤丸は苛立ち、周囲を口汚く罵ったり、童を柳の枝で打ち据えたり、手近なものを投げつけて明かり障子や天袋を壊すようになっていた。
経覚は館へ人をやり、
「多武峰で猿楽を催す時節じゃ。たまたま京下りの客があるので、畑蔵人とともに案内へ立ってやってはくれぬか。ともにゆるりと見物して、気も散じてくればよい」
と言伝した。春藤丸は初め難色を示したが、経覚の顔も立てねばならず、根が猿楽好きでもあるので、結局は肯じた。
一行を見送ってしまうと、入れ替わりのように、藤寿丸が古市へ帰ってきた。叔父のいる発心院からの土産として、檀紙と筆を携えていた。
「よう帰ったの」
経覚は離れの座敷で引見してやった。下げ角髪と垂領にした水干姿で、袴は脛巾で結んだまま、木鞘巻きの道中差しを帯びている。やはり幼さに似ず、光の乏しい目つきだった。
一時は止まるところを知らなかった背丈の伸びも、近ごろは勢いを失い、兄をやや追い越した程度で収まっていた。
「いよいよ来春には、出家と相なるか」
「はい」
支度のため、半月ばかり叔父の元へ行っていたのである。意外にも先方からは、冷静沈着で書見を好み、稚児や喝食とも分け隔てなく接しており、前途有望と報じられていた。
「こう言っては何だが、そなたは兄と比べれば、まるで鋭いところのない童だと思っていた。だが今となっては、あれよりもはるかに先を行っているのかもしれん」
経覚は、我知らず愚痴っぽくなっていた。童子に面と向かって言うようなことでもあるまい。
「兄上は、天賦の才人なのです。その考えは、我ら凡人の及ぶところではありません」
「そなたがさように言うか。もう館の方へは立ち寄ったか」
「いえ、まだ」
「では、驚くやもしれんぞ。先日来、ひどい騒ぎになっているのでな」
「はあ、『矢ハキ』の一件でしょうか」
藤寿丸は眉一つ動かさず、事もなげに言ってのけた。経覚は驚きのあまり大口を開けてしまった。
「既に聞いておったのか」
「あの刀は、もうこの世にはありませんよ」
「なに」
「茎を削り、打刀の長さに変えさせましたので。『矢ハキ』の銘は、もうどこにもありません」
言いながら、帯に差したものを抜き、目の下の畳へごろりと投げ出してみせた。言葉がなければとても信じられないほど、似ても似つかない姿である。
「今日初めて帯びてみたのですが、この形も悪くない。銀銅の太刀拵は、代金として刀工へくれてやりました」
「そなたが、館の会所から盗み取ったというのか。たった独りで」
顎が震え、うまく声を出せない経覚を尻目に、藤寿丸は淡々と話し続けた。
「奈良から馬を走らせれば、古市までは四半刻もかかりませぬ。わたくしは馬を黙らせる術を心得ておりますので、夜陰に紛れて馬場へつなげば、誰にも見咎められることはない。郷の木戸口が閉ざされていても、わたくしの顔を見れば、夜番は開けざるを得ません。あとはそもそも自分の家ですから、忍び込むことも逃れることも容易い。むしろあのような人けのなさでは、どのような重宝であろうと、その気になれば盗み取られてしまうでしょう」
「なぜだ。なぜそなたが」
相手の深く奥まった瞳は、乾ききった陽射しの陰になり、まるで心持ちが窺えなかった。
「父胤仙は、馬借の王だったと聞いております。ところが、兄ときたら鞍にまたがることすらできない。父の形見は、兄には相応しくない。この刀はただ埃をかぶり、座敷の奥で茫然自失のていで、昔の栄華を懐かしむばかりになっていた。ならばこのわたくしが引き取り、新たな命を吹き込んでやりたい。ずっとそう考えておりました」
このような強い思い、このように夥しい言葉が、一見鈍重な童の内側に渦巻いていたとは。経覚は空恐ろしくなり、束の間、目の前を正視することもできなくなった。
「そもそも兄は、おのれの命を永らえるため父に立願させ、大和制覇の大望を挫きました。わたくしが生まれると、父は昔の力を取り戻そうとしたようですが、願を破ったためか、にわかに没してしまった。要するに、父を殺したのは兄なのです。しかしわたくしには、この古市のためには、父と兄の命が釣り合っていたとは、どうしても思われない」
遠回しに、こちらまで責めようと言うのか。
思わず険しい目を上げた経覚は、口の中で小さな悲鳴を立てた。藤寿丸が生まれて初めて、朗らかに笑っていたからである。
~(8、最終回)へ続く