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「酒を飲まないことは倫理的に正しいか問題」のプディング的構造、ウルトラニートは二度死ぬ、「現実」というのはいつだって嫌なものなんだよ坊や、
八月三十日
「この家を見ろ、お前を兄さんを見ろ。わしが若いときに怖じ気づいてれば、お前もこうしちゃおらんぞ」
「じゃ僕も仕事について、家を買って、子供をつくって、これそっくりにやればいいの。意味がないと思うんだよ、パパ。本当のところ、素敵な中流家庭が、あと一軒増えようと減ろうと、たいした違いはないんじゃないの」
午後十二時二九分。うずら、白い油抜きの紅茶。スピッツの「スパイダー」がイヤーワームになっている。いつもの二倍は離床するのが辛かった。サーキュレーターの強めの風にずっと当たっていたからか。あるいはビールを一リットル飲んだからか。ひさしぶりにエアコンなしで寝たらこれだからな。明日は午前十一時五五分には必ず離床する。男はいつも有言実行あるいは不言実行でなくてはならない。こんごは酒を飲むのは原則として休館日前だけ、としようか。重度のアルコール依存症に振り回されている己の姿を想像すると酒を飲むのが怖くなってくる。誰が何といおうとアディクションというのはセクシーではない。アディクションは「隷属」だ。さいきんの俺は酒を飲まない人間を理解できなくなっている。酒を飲まずに生きられる人間を一種の病人だと思いたがっている。これはかなりヤバい認知傾向だ。過剰な「自己正当化」だ。客観的に見て病人なのは酒を飲まずには夜の数時間も過ごせないこっちのほうなのに。『平熱のまま、この世界に熱狂したい』という題のエッセイ集があることをさいきん知って気になっている。著者がもともとアルコール依存症だったというから。まだ読んでないし、たぶん好みの文体ではないだろうから今後も読まないだろうけど、平熱と熱狂を組み合わせる撞着語法はなかなか気に入っている。昨深夜ガストン・バシュラールを読んでいると「徹宵者」という言葉が出てきた。これもけっこう気に入っている。西部邁が深く関わっていた論壇紙に「表現者」というのがあったことを思い出して、「徹宵者」という雑誌を出したくなった。徹宵(徹夜)することなんか普段はほとんど無いんだけどね。あるとしてもただ寝られなかっただけ。ところでセナ様が夢に出てこないのはどうしてなんだろう。夜な夜な気違いみたいに恋焦がれている。いつかセナ様をこの目で見ることが出来るだろうか。セナ様は菩薩の化身だからいつまでも地上にあるとは限らない。一分間でもセナ様の靴下になれるのなら人類など消滅したって構わない。俺はいつだって正気だ。菩薩を菩薩として認識できる点で俺はどこまでも正気なんだ。これだけははっきりしている。もう飯食うか。窓を開けているのでジジイのタバコ臭がじゃっかん気になる。こいつはヤニカスのなかでも最底辺に属するジジイだ。なにしろ「嗜みのゆとり」がない。吸うためだけに吸っている。貧困ストレスや孤独ストレスを和らげるためだけに吸っている。たぶん咳が止まらなくっても吸い続けるだろう。こういう完全な依存症患者を見ていると「なんでこうなった」としか言えなくなる。こんな廃人一歩手前みたいのになりたくないので俺は酒を週一にしたいのだ。きょうもこのあと図書館かな。そういえば七月初旬に俺も長い取材を受けたNHKの「ドキュメント72時間」の放送が今夜あるらしいけどもちろん見ない。「文学は避難所ですね」みたいなことを得々と語っている自分を想像しただけで穴に入りたくなる。もっとも俺の語りがぜんぜん使われていない可能性もあるんだけど。それはそれでなんか腹が立つ。そもそもオイラの部屋のはテレビがない。受信料なんて払う気もないし。ただぶっ壊さなくてもいいとは思うよ、NHKは。あの桜が散ったとき僕は陰毛を剃って君にプレゼントします。あの春の千里浜で拾った桜貝と一緒に。
【備忘】5000円