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目覚めて「害虫」になっていること、目覚めて「人間」になっていること

七月十六日

貧乏と言っていい境遇で育ったために、ディケンズは貧しさ恐れていた。そして寛大な精神の持ち主だったにもかかわらず、中産階級とは名ばかりの貧しい人たちにたいする独特の偏見を捨てられなかった。一般に彼は「大衆」作家であり、「しいたげられた大衆」の代表選手だとされている。彼が大衆をしいたげられていると考えていることはたしかだから、その点はまちがいがない。だが、彼の姿勢には二つの限界がある。まず第一はイングランド南部の人間であり、しかもロンドンっ子だということで、その結果、ほんとうにしいたげられている膨大な数の大衆、すなわち産業労働者や農業労働者とは接してしないという事実である。

『オーウェル評論集』「チャールズ・ディケンズ」(小野寺健・編訳 岩波書店)

十一時起床。schwarzer Tee、Schokolade。日曜日と月曜日はいつもよりちょっと多めに寝る。原稿も書かない。きのうは閉館後、イワガミ氏と市内の定食屋「だるまや」へ夕食。混んでいて、店の外にまで人が漏れ出していて、一時間ほど待ったが、ハイデガーだのカントだのと駄弁っていたのでそう長くは感じなかった。豚バラ定食の千円分をおごってもらう。外食はほとんどしないので、緊張して入ってくるのものを体がうまく消化してくれないことがあるが、さいわいきのうはそこそこよく消化してくれた。

カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論:可塑性についての試論』(鈴木智之・訳 法政大学出版局)を読む。
二百頁にも満たない小著だが、「生命」にまつわる洞察を多く含んだ好著。彼女が「可塑性(plasticité)」の問いになぜそこまでこだわっているのかが、ちょっと分かった気がする。マルグリット・デュラスやトーマス・マンが引き合いに出されたくだりは秀逸。『愛人(ラマン)』や『太平洋の防波堤』を読みたくなった。以下は、マラブーから受けた示唆をもとにした、俺流の考察。
並の哲学や並の小説はだいたいにおいて「自我同一性の壊乱」は扱わない。巧妙に避けているように見える。「私」はある日とつぜん変わりうる。少しづつの(漸次的)変化よりも、ある日突然起こる変化のほうが、大きいのかも。グレゴール・ザムザという男が目覚めたら「虫(Ungeziefer)」になっていた、という作品がある。ウンザリするほど誰もが競って新解釈をしたがるこの作品の「不条理さ」は、「変身」という出来事そのものよりも、それによって生じたザムザとその家族との埋めがたい隔絶にある。ある日とつぜん何もできなくなった人間を「世話」することの実務的・心理的な難しさ(「介護小説」として『変身』を読む小川公代の試みに注目)。一人の「変身」はその周囲の人間をも否応なしに巻き込む。「変身」は逃走でもある。周りの人びとにとって、それはある日とつぜん問題化(現前化)する。「ひきこもり」や「拒食症」や「鬱病」といった事例を考えてみるといい。アポロンから逃げるのに月桂樹に変身したダフネの物語は美しいが、どうしてそれが植物だったのかと考えずにはいられない。「植物人間」や「木石のような」という言葉が示すように、植物は「意思疎通」の出来ない生物の代表だ。生きてそこにあることに付随するゴタゴタの大半は「人間関係」に由来している。他者(社会)とは概しておそろしいものであって、そのおそろしさに対してある程度鈍感にならない限り、人は「正気」で日々の生活を送ることができない。僕をいま苦しませているこの「強迫神経症」もとどのつまりは「人間恐怖」なのだ。隣の爺さん由来のタバコ臭や雑音のいちいちに、私はあきらかに「迫害恐怖」を感じている。他者とはすべて勝手に侵入してくる者なのである。私は気が付けばすでに他人によって侵入されている。たとえば、親という他者は「産み落とす」「名付け」「養育」ということを通して勝手に侵入してくるのだし、政府という他者は「保護」「徴税」というかたちで勝手に侵入してくる。ゴキブリや蚊という他者も勝手に侵入してくる。この「暴力性」に対し、どうして誰も怒らないのだろう。というかそもそも何の不快も感じていないのかも。
私はある日突然、「人間」という「有感生物」に「変身」していたのだ。「生誕」というこの災厄(Emil Mihai Cioran)。現世界において赤ん坊ほど悲劇的でグロテスクなものがあるだろうか。

さあ、昼飯食って、きょうで開館一周年の図書館に向かおうか。うるさいだろうな。この図書館はうるさいのが玉に瑕。図書館ほど静寂であるべき空間は他にありはしないはず。

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