繋いでいくもの
今日の片付け事は「アルバム」です
これは沢山ある片付け事の中でも、私にとって難関になります
やはり転勤族とは言え、私たち夫婦の結婚式前後から始まり
子供達の成長記録としての「写真」は、かなりの数になります。
思い出を「捨てる」のは、とても気が進まない事で…
だから「残したい物を選ぶ」というスタンスで取り組む事にしました。
これは「捨てカツ」や「断捨離」など、整理整頓を行うスペシャリストの方々が、よく話されている事ですが
やっぱり実際に行う時には、かなりの説得力があるような気がして
整える中で、とても「選ぶ」という行為を実感しています。
そしてとりあえず、これからの暮らしの中で
写真に取れるスペースを決めました。
アルバムを新しくして、そこに入るだけしか持たない様にして行きます。
私たち夫婦が、暮らしを小さくするのは
2人とも自分の親を亡くした時に
やはり家や、家の中の物や、知らない事や、見えない物の処理処分で
立ち止まった経緯があり
捨てる事は、どんなに手間がかかり
またそれ以上に、切ない事であるかを経験したので
自分の子供達には、なるべく最小限の手間で終われるようにしたい…
と言う願いからです。
人は1人で命を終わって行くけれど
人の世話に全くならずには、終われないものだと思います。
ならば少しでも自立して、自分の頭で判断し
自分の足で歩ける時間を長くしたいと思うのです。
加えて自分が出来るうちに、自分の身の回りを軽くしておきたい!
まだまだ元気なうちに・・・と思います。
私はひとりっ子で、小さい頃から仕事をしていた母とは
すれ違いの暮らしをしていて
いつも母を求めていた幼少期を過ごし
大人になっても
かなりの依存体質が、抜けませんでした。
でも母は亡くなる前に「娘の近くで暮らしたい」と言う願いを
それまで何一つとして、父に逆らうことは無かったのに
珍しくハッキリと口にして
父と別居をしてまでも、私のそばに来て暮らし始めました。
私はおかげで
自分のできる限りの介護をする機会を
得ることが出来ました。
依存はしていても、求めてばかりで何も返していなかった私の記憶は
母を介護する事で「依存」ではなくて
「共存」に書き換えられていったような気がします。
そして私は生涯のうちで1番、母のそばにいる感覚が持てました。
子供の頃には願っても叶わなかった「そばにいられる感覚」を
充分に感じる事が出来ました。
最後の最後は、家での治療の限界と
私の体力の限界から、病院で母は亡くなりましたが
ただその時も、母は亡くなる姿を誰にも見せず
私が駆けつけた時には、旅立った後でした。
サヨナラというよりは
「何かが終わった」気持ちが大きかったのを覚えています。
いつも依存していた私が、初めて母から自立する機会を得ました。
充分に関わり合い、生活を共にすることで
甘えたい感情は小さくなり
そこには「母が弱って行くこと」を
日々噛み締めていく生活があったのです。
きっと私は、その最中では自覚は無かったにせよ
母にずっと「一人で生きる覚悟」を教えられていたのだと
今では思います。
母とは真逆に私の父は、典型的な昭和の父で
私とはあまり話さず
私に言いたいことが有ると
いつも母を介してのコミニュケーションを取るような人でした。
職業がら、家ではお弟子さんを叱るのを見ていてたり
いつもいつもお稽古をしている姿を目にしているので
厳しさばかりが目に映り
また、家に居ない時間も多かったので
なかなか大人になっても「近寄りがたさ」が抜けませんでした。
逆らえなくて、厳しくて、少し遠い存在だったと思います。
私が赤ちゃんの時には、母よりも時間をかけて世話をしていたと
後から話を聞きましたが
娘時代には、ずっと「垣根」を感じながら接していた気がします。
ある日、私が母の介護をしていると父から
「呼吸が苦しいんだ」という連絡があり
私はそれまで母は自宅で、父の事は通いでみていましたので
急いで実家まで駆けつけました。
「我慢強い」という性質が仇となり、かなり状態を耐えていたらしく
救急車をすぐに呼んで、即入院となりました。
母は入院中に認知症が急激に進行しましたが
父は亡くなるその日まで認知症にはならず
亡くなる前日まで、ずっと毎日話せました。
10年前に患った大腸がんが肺に転移して、呼吸が苦しくな
ったとのこと
それを知った時には、もう処置は出来ませんでした。
そんな入院してから亡くなるまでの間
父は私に、初めて弱音を吐いたのです。
あんなに強くて、怖くて、厳しかった父が
「死ぬのが怖いんだ」と、娘の私につぶやきました。
「楽に逝きたいな」ともつぶやきました。
それをどうしたらいいのか、あまりにも未経験で
その時の私には、どうすることも出来ませんでした。
私はただ、一生分の弱音を受け取ることにしました。
そしてただ、ずっと話を聞くことにしました。
やがて病院から連絡が来て、病状が急変し
父がいる集中治療室まで駆けつけると
先生が心臓マッサージをしている、とても緊迫した状態でした。
初めて見る光景に呆然としてしまい
家族の誰も口をきけない中
自分でも不思議なのですが「私、代わってもいいですか」と
先生に聞いていました。
頭の中は確かに真っ白なのですが
何かを感じたのは覚えています。
以前、仕事の資格を取る過程で「心肺蘇生」の研修は受けた事がありますが
実際に人に対して行った事は、一度もありません。
先生の了解を得て、父の胸に手を置いて蘇生をする中
覚えているのは
「私なら奇跡が起きるかも知れない」という感情が最初はあったことです。
やがて、父の顔を見ながら
「私が今、生死を繋ぐ場所に一緒にいるんだ」という感覚が
それはとても大それた考えですが、生まれて来ました。
「楽に逝きたい」という父の願いに。応える為に私がいると
勘違いかも知れませんが
そう自分を、かいかぶってしまったのです。
ずっと遠くに感じていた父が
その命が終わる時
一瞬でも私に分けてくれた最後の「怖さ」という荷物
それを一緒に背負える事が、とても幸せに感じました。
親は子供に生き様と、死に様を見せられると言いますが
いつ思い返しても両親のそれは
ただ「愛」を感じることばかりだった気がします。
これは私たち親子のみにしか言えない個人的な感想ですが・・・。
私も親として、いつか娘たちに
私なりの姿を、繋いで行かなければと
思わせてくれた、ふたりの姿でした。
追記
ギャラリーからお借りしたのは
大好きな「hoho」さんの作品です🥀ありがとうございました
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