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山下清、天衣無縫の大将 その3

※これは2022年に書いたもので、記事中の情報も当時のものです。

●民藝家山下清

実は山下清にも民藝家としての性格がある。茨城大学の藤原貞朗(ふじはらさだお)氏の指摘によると、テレビドラマの印象で「放浪の画家」というイメージの強い山下清だが、実は陶磁器作品こそ彼の注力の的であり、「放浪の陶芸家」「放浪の絵付師」と呼んでもいいという。そしてその足跡は、湯町(ゆまち/島根)・小鹿田(おんた/大分)・益子(ましこ/栃木)など、それらの窯場の多くは、民藝運動によって知られた場所であった。

実は戦後の山下清ブームと民藝の復興期は一致しており、1955(昭和30)年には民藝陶器の濱田庄司が人間国宝に認定されたり、1956(昭和31)年には、柳に美学を師事した木版画家、棟方志功がヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞している。

丁度、山下清の垂水逗留の時代帯だが、果たして彼の眼は、垂水をどう映していたのだろうか。

また、一方で、山下清は魯山人も作陶した窯を訪れたり、普通、民藝では良しとされない作品へのサインも入れている。

山下清自身の心うちは、本人だけにしか分からないのだが、この立場や主義にとらわれない、「闊達さ」や「自然さ」、どんなものでも取り込んでいく自由な創作姿勢こそ、山下清の作品に香る「大衆性」であり、彼の国民的人気の秘訣であろうかと思う。

「裸の大将・山下清」というイメージを、山下清本人はあまり好んでいなかったというが、「天衣無縫(てんいむほう)の大将」とでも言うべき、山下清作品に潜在する仏性(ぶっしょう)のようなものを私は感じる。

芸術作品が作者の作為性(メッセージ)を離れ、見る側の感性に委ねられるものがあるように、この拙文が、山下清という人物を「こうも解釈できる」という、そんな一入射角になればと思う。


「山下清と北迫正治の世界」私の見るポイント

展示の一角に「山下清の落書き帳」というものがある。山下清と水之上小学校の教員であった藤田龍雄先生とがひとつのスケッチブックにいろいろと自由に絵を描いている。

山下清は垂水逗留中でも、脳裏に焼き付いた日本各地の風景を描いており、その中には富士山の絵もある。清はサインの隣に「(遊びで書いた)」と記しているが、「遊」という字の「斿」の部分を「旅」と書いている。

他の作品ではちゃんと「遊」と書いているから、意図的なものではなく、単純な書き間違いであろう。しかし何とも、日本や世界をぶらりぶらりと経巡った、山下清という人物を偲ばせるような書き間違いだなぁと思った。

以上

二〇二二年四月十五日

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釋 潤心(柊原のお寺 真宗寺)
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