【The Evangelist of Contemporary Art】現代アート考-あいちトリエンナーレ2019を忘れない
上写真:ベックリン《死の島》1880年
現代アートとは、何だろうか?
これは答えるのが難しい質問である。現代アートの作品は収拾がつかなくなるほど多種多様なので、普通ならすべてをまとめて語ることは不可能とされる。だが日本の現代アートは、ざっと俯瞰するだけでも、そこに共通する特徴があるように見える。
アートを包括的に説明する理論として、フロイトの精神分析学的解釈を取り上げてみよう。それによれば、人間の精神には現実原則、快楽原則、快楽原則の彼岸があるという。私は密かに、日本人は3番目が強いと思っているが、アートが2番目の原則に準拠することは間違いない。しかし、1番目の原則の壁によって2番目の達成が阻まれるので、人間は快楽を追求して現実を迂回し、非現実の架空世界(幻想)に潜り込む。現実では具現化できない世界を、現実の代償として確保するのだ。この転倒した活動が、アートである。
この代償行為は「昇華」と呼ばれて、アートを規定する最大の特色となっている。
アートへと至る心的メカニズムは、こうだ。まず快楽への飽くなき欲望があり、それが現実の限界や規制によって阻止される。その束縛から解放されようとする欲望が、アートの世界に現実では勝ち取ることのできない理想や奇跡を投影して代償の満足を覚える。その幻想は現実のもたらす充実ほどではないが、快楽原則に適う強度を帯びる。
日本では現在、そのようなアートを正当化する安定的な図式が社会的に壊れているとしたらどうだろう。
とりわけ2019年のあいちトリエンナーレで起きた「表現の不自由展・その後」の展示中止事件(1~5)のショックは大きい。トリエンナーレの閉会間際に展示は再開されたけれども、アートでまともに批判(理想は、それに照らして現実を批判)することが困難になったのだ。以前からアートの世界の内外から隠然とした強制や禁止はあった。が、その圧力の存在があいちトリエンナーレで社会的(リアル、ヴァーチャル双方で)に一般化し、アートを公然と攻撃(威嚇、脅迫)する行為が認められるようになった。まさに日本における「表現の不自由」の証明である。その背景に社会の保守・反動化の流れがあることは言うまでもない。その帰結として深刻なのは、現実からの攻撃によって表現の自由が蒸発し、アートが窒息状態に陥っているということである。
2 「表現の不自由展・その後」展示室への入口
3 壁を覆う付箋は、参加アーティスト有志による呼びかけに応じた観覧者のメッセージ
あいちトリエンナーレ以前なら現実の変容の動きが堰き止められて、架空世界に逃避するというのが、アートの活動の定石だった。だが、あいちトリエンナーレをめぐるスキャンダルで、その逃避の自由まで奪われる事態に立ち至ったのである。それで明らかなように、アートに理想や奇跡を代行的に実現する道が決定的に断たれたのだ。
そうなれば、アートはなにもかも諦めて自殺するか、抑圧する現実に立ち向かうしかないだろう。アートが自暴自棄になって現実に逆らい、それを破壊しようとするかもしれない。これは、逃避と見做されたアートが、追い詰められた結果、現実に反旗を翻すことを意味する。勿論、このアートの反応は矛盾である。アートは幻想なので現実に物理的に作用できないからだ。そうであっても現実は抵抗される原因を作っているので、アートの無力な介入を甘受しなければならないはずである。ところが、現実を支配するマジョリティは、反省することなく数に任せてさらなる抑圧を繰り出す。
アートによる転倒(現実から幻想へ)の転倒(幻想から現実へ)。このダブルの逆転現象は、現実のマクロには現れないミクロの局面で深刻な破綻を生じさせているのではないか?
文・写真:市原研太郎
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