田中みゆき×近藤銀河 『誰のためのアクセシビリティ?』刊行記念対談 (第2回)
■クィアや障害のある人がゲームをプレイする、作る。そのためのアクセシビリティは?
田中 健常者の持っている規範の中に、能力主義がある。それってエンタメの世界でも無視できないし、実際にかなり刷り込まれていると思うんです。例えば、ゲームのアクセシビリティもどんどん発展していますが、結局アクセシビリティがついているゲームって、かなり能力主義的な……。
近藤 超大作ですよね。
田中 AAAと言われる大資本のアクションゲームだったり。私は『誰のためのアクセシビリティ?』では、エンタメの中でゲームが一番アクセシビリティが進んでいると書いています。ただ、書ききれなかったのは、アクセシブルになってプレイできたところで、それはメインストリームへの抵抗になっているのか?というと、まだまだそこには至っていないこと。近藤さんが『フェミニスト、ゲームやってる』の中で、ゲームをやることが社会への抵抗の練習になると書かれていたのを読んで、それができる余地があるはずだけど、アクセシビリティがないことでまだそこに至っていない現状があるなと思いました。
近藤 そうですね。小規模店舗的なゲームほど、そういう抵抗とか能力主義について考えながら作られている。一方で、そうしたゲームはアクセシビリティを提供する余裕がないんです。そうなるとアクセシビリティがあるのは、予算のガッツリついた大作のゲームばかり。大作もいろいろ考えて作られているとは思うのですが、もっと尖った、当事者性が強いようなゲームには、アクセスが難しかったりするんですよね。
田中 表象の問題とも関係すると思うんですが、障害のある人にとっては、自分と同じ人がゲームなり映画なりに全く表れないことが前提になるじゃないですか。でも、そういったメインストリームの物語をクリアすることは自分にとってどういうことなのか?という議論が障害のある人の間では少ないなと。そこはクィアの方が議論されているんじゃないかなと思います。
近藤 そうだと思います。クィアのゲームが増えてきているし、私もやるんですよね。なぜかというと、自分と似た人生を体験できるというのは、やはりすごく楽しいんです。昔は私も「いや、主人公に感情移入とかしないわ」みたいな人でした。でもあるとき、クィアな物語を読むようになって、「あれ?面白さが違う」と気づいてから、そういうゲームも好んでやるようになりました。やはり「そこに自分がいる」という体験をしてみないと、それが重要であり、やってみようという発想に至らないんです。
それから、クィアのゲーム作家たちがどんどん出てきているのは、ゲームを作ることのハードルが下がってきているからなんです。昔は高度なプログラミングの知識がないと作れなかったし、配信もできなかったものが、今はできるようになってきている。でも、いろいろな障害のある人がゲームを作れる環境があるかというと、そこに関してはまだ全然。
田中 全くないですよね。私がやっている『オーディオゲームセンター』にも、今お話ししたことと直結した難しい問題があります。音から作るゲームがメインストリームのゲームから外れていてマイノリティにとっても公平かというと、実は全然そうでもないんです。そもそもオーディオゲームは、見える人がプレイしているゲームをプレイできないから、視覚障害のある人が自分で作り始めたものなので、やはり“普通”のゲームへの憧れがあり、それを音で再現したものがほとんどなんですよね。
近藤 クィアなゲームも、SFやファンタジーなど既存のジャンルにあえて乗っかる作品が多いです。ジャンルものになりがちで、ある種のパロディも含みがち。やっぱり「あの有名なゲームが、もしクィアのものだったら?」という想像が含まれているなと思います。
田中 先日、CCBTの中でハッカソンをして、目が見えない人と見える人で、丸3日間、キャンプのような感じでゲームを作ったんですが、参加者の1人が「私は派手なオーディオゲームを作りたい」と言って、魔法少女をテーマにしたオーディオゲームを作ったんです。それを見て初めて、今までオーディオゲームに女性の作り手がいなかったことに気づかされた。それくらい私にもいわゆるマッチョな思考が内面化されていたんですよね。アクセシブルなゲームがクィアやフェミニズムの視点を入れられているかというとそうでもなかったり、逆にクィアなゲームがアクセシブルかというとそうでもなかったり。まだまだ分断されているなと感じます。
近藤 そうですよね。障害があると普通のことができないっていうのがまずあって、そこへの憧れは強いと思うんです。もし一般の人と同じように体験できたら「なんだ、こんなもんか」ってなるかもしれない。でも、そうなることさえできない。パラリンピックもそうですが、まず「運動する」ということが特別なことになってしまっている。運動できる機会もない。やってみたら「運動って別にたいしたことないな」ってなるかもしれないけど、それさえもなくて。私はオリンピックの開催には反対していますが、じゃあパラリンピックも同じように潰していいのかというと、ちょっと立ち止まりたくなるんですよね。
クィアにとっての結婚もそう。クィアは結婚制度に抗うけれども、まず結婚する権利というものを得ないと話は始まらないということは、クィアの中でいろんな形で議論されてきたと思うんですが、障害もまさに同じというか。もっと前の段階に置かれていて、そこを整備した先に、やっと自分の体験を語りたくなるんじゃないかと思います。
田中 そうですね。一方、オーディオゲームは特異な例です。目の見えない人たちが自分たちで作ろうとしても、ゲームエンジンは基本的に目が見えないと使えないので、1からコーディングするしかないんです。だから、かなりハードルが高いのですが、作っている人が世界中にいて、みんなが繋がって、お互いのゲームをプレイし合っている。結構、特異なコミュニティだし、先端的な事例だとは思いつつ、オーディオゲームでしかできないユニークなゲームがあるかというと、まだこれからかなと思っています。
近藤 エイブリズムの話もありましたけど、そもそもエイブルでもないし、能力があるとさえ思われていない。その中で、まず能力があると示したいというのはある意味、当然だと思うんですよね。
ゲーム研究では、リサ・ナカムラさんというアメリカの研究者がいらっしゃるんですが、彼女は、アジア系などの人種的マイノリティやセクシュアルマイノリティのゲーマーほど、ゲームコミュニティで認められるために自分の能力を発揮したいという考えが強いということを論文にまとめています。過酷なハラスメントに晒される中で、能力主義に傾倒していってしまう。そういう戦略を取らざるを得ないということについての論考なのですが、それは本当にある。とてもつらいし、残酷だけど、そうなることを責めることもできない。
そういう意味で、まずアクセシビリティを用意して、そこからどうしていくかを考える環境を、言葉や議論も含めて用意していくことが、我々に求められているんじゃないのかなと、田中さんの本を読んでいても思いました。
■なぜ障害のある人ばかり自分語りを求められるのか?
田中 目が見えない人に「独自の世界を見せてください」と言うのもエゴだなと思うので、そこはいつも難しいですね。
以前、映画『ナイトクルージング』を作ったときに、主人公の、生まれながらに全盲の加藤秀幸さんは、スタッフから「目が見えない人しか作れないもの」を当初期待されました。でも、加藤さんは「それは自分にとっては何も新しくない。むしろ、自分は見えている人が何を見ているのかを知りたいんだ」と言いました。みんながみんな、独自の文化を表したいとか、見えないことを前面に打ち出したいわけではない。結局、選択できるということが大事だと思うんですよね。自分でも作れるという状態があることがベースですが、そこにまだ至ってないなと思います。
近藤 私たちがマジョリティから求められるのは、「あなたの世界を見せてくれ」なんですよね。それって本当に問題だと思っています。
『フェミニスト、ゲームやってる』でもちょっと批判したんですけど、「目が見えない人の世界を再現しました」みたいなゲームがインディーの世界にたくさんあって、私は本当に嫌なんです。それは視覚障害者がやれるわけでも何でもないから。何か物に触ると物が出てくるみたいな、マジョリティが考える視覚障害の雑な描き方に出会うと怒りを覚えます。障害者は、常にマジョリティに「あなたには世界がどう見ているのか教えて」と説明を要求されるんですね。私はそれは差別的だし、嫌だと思っていて。だから、マジョリティが自分の世界がどのようなものかを考えるというのは大事だと思います。私も、例えば異性愛者は、自分の異性愛者性に無自覚だなと思っていて。
田中 そうですよね。この本の中でも書いた、ろう文化の話もそうです。ろう文化とは何かをろう者が話す。でも、同じ解像度で聴者が聴文化を語れるかというと全然語れないなと。
近藤 その語りってすごく大事なんですよね。その語りをすることで初めて見えてくるものがたくさんあると思っていて。
田中 自分が言語化しなくても、誰かがやってくれているということがマジョリティの特権で、そのことになかなか気づかない。最近はマジョリティ研究だったり、アメリカでは白人研究というものも出てきていますが。
近藤 そうですね。例えば、健常者も障害を体験してみましょうという試みは、本当に何かの体験なんだろうか?というのは、この本の中でも問われていましたね。私もすごくそう思います。障害があるというのは、単純に社会の中で障害に接するということだけではない。社会の中に障害があると言っても、日本中の建物にエレベーターが設置されるまであと100年かかるんじゃないかと考えるとか、車いすがあることが日常になっているとか、自分のいろんな体験が複雑になって初めて障害のある自分という体験がある。田中さんの本では「環世界」と表現されていて、これは本当にそうだなと思いました。
田中 今、お話していて、障害のある人の場合、クィアみたいなアイデンティティよりも、見えない、聞こえないというインペアメントの方が強調されがちなのかなと思いました。それはその人の環世界のベースではあるけれど、全てではないということが伝わるまで、まだまだ時間がかかるなと。
近藤 そうですよね。自分の環世界を表現するのは、難しいです。私も最近やっと障害について書けるようになってきたのですが、長い時間がかかります。自分のアイデンティティとしてプライドを持ちにくいし、それと向き合うのって痛みが伴うんですよね。私は、パンセクシュアルであることにはプライドを持っているけど、日々苦痛を感じて生きていることに対して、どうプライドを持つことができるんだろうと、悩むことがあります。
■人権を軸にアクセシビリティを考える
田中 もう、一体何年この話をしているんだろうと思うけれど、まだ社会モデルを広めていこうという段階じゃないですか。
近藤 はい、30年くらい。
田中 でも、社会モデルですべての障害がクリアできるかというと全くそうではない。もちろん社会モデルも大事だけど、社会モデル万能説は危険だなと思うし。
近藤 社会モデルというのは、インペアメントとディスアビリティに強く線引きをする論点でもあるんです。例えば、私だったら、体に苦痛があって動けないというインペアメントがあって、車いすに乗っている。でも、社会の側が解決できることだけがディスアビリティで、そうでないものはインペアメントだからどうでもいい、という論になってしまうのは、問題だと思います。そこでは解決できない障害が見落とされてしまう。例えば、マイノリティのイベントでも、UDトークを使う動きはありますが、そういったもので対応しきれない車いすユーザーなどは、捨て置かれてしまっているなと。
田中 アクセシビリティでも、例えば、音声読み上げや音声描写、字幕などが「社会のみんなに役立つからやりましょう」という掛け声で先にやられている状況です。でも、じゃあそうではないアクセシビリティはいらないのか。例えば、発達障害や知的障害や、アクセシビリティがまだ十分ではない人たちのことをどう考えていけばいいのかというのは、悩ましいところだと思っています。私も。
近藤 みんなにとって役に立つアクセシビリティだけがアクセシビリティではないですよね。「障害が解消されれば、マジョリティにとっても役立つよ」という話があるけれど、絶対にマジョリティが嫌だと思うようなことをやらないといけない状況が出てきます。今までになかったコストにどう向き合うのかということが、今後問われると思います。
そこで重要なのは、人権が中心にあるべきだということなんです。売れるからとか、幅広い客層にリーチしたいからとか言われがちですけど、そうではなく、議論において人権というものが中心にあるべきだと思うんです。そうじゃないと役に立たないものはいらない、となってしまう。
田中 そうですね。障害のことをやっていると、使いたくない言葉がたくさんありすぎて、どう言えばいいんだろう?と悩みます。多様性もそうだし、インクルージョンもそう。結局、上からじゃないですか。包摂してやるみたいな。それが嫌で使いたくないんですけど、代わる言葉は何なのか。「共にある」ぐらいしか言えないなと思っていて。
近藤 なんらかの企画を通すときに方便を使わないといけないんですよね。私も助成金を申請するときに、企画によっては「この助成金は、SDGsの何に当てはまるか説明してください」と言われるんですよ。
田中 全部にしておけばいいんじゃないですか(笑)。
近藤 そういうのに乗らないといけない場面がある。特に障害のある人は、日々そういうのに向き合わされ続けています。
田中 結局、必要なのはマジョリティの教育なんだなと思うので、二枚舌じゃないけど、両方やっていかないといけないなと感じます。
近藤 さっきコストの話もありましたけど、どうしても大資本を持っているところの方が対応できるんですよね。小さい資本しか持たないがゆえにいろんなことができる場所っていうのは、アクセシビリティの確保が難しいです。
書店もそうですよね。ジュンク堂は私も来やすいし、良い本屋さんだと思うんですけど、独立系の書店は、段差や階段があったり店内が狭かったり行きにくい店が少なくない。でもそれって別にその独立系書店が悪いわけではないと思うんですよね。そうなってくると、アクセシビリティを妨げているものは、ものすごく根本的に言うと、今の社会のありようというか。お金を何に出して何に出さないか、そういう資本力によってアクセシビリティの対応が決まる社会とか、実は大きいところに行き着くんじゃないかという気もしています。
田中 独立系の書店も、十分な通路幅が取れる土地にどう店を持つのかが課題かもしれないのですが、それだけじゃないと思うんですよね。十分な通路幅が取れないのなら、自由に本を選んでもらうことを、どうやったら代替的な方法でできるのか。それがない状態だから、通路幅だけが問題になると思うんですけど。
近藤 そうですね。アクセシビリティがどのように可能になるのかということも、いろんな幅があるとまた世界は変わっていくのかなとは思いますね。話は尽きないです。(「第3回」へつづく…)
◇田中 みゆき
キュレーター、プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害のある人たち含む鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に、映画『ナイトクルージング』(2019年)、21_21 DESIGN SIGHT企画展「ルール?展」(2021年)共同ディレクション、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021年)、『音で観るダンスのワークインプログレス』(KAAT神奈川芸術劇場ほか、2017年〜)、『オーディオゲームセンター』(2017年〜)など。2022年ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。美術評論家連盟会員。共著に『ルール?本 創造的に生きるためのデザイン』(フィルムアート社)がある。
◇近藤 銀河
1992年生まれ。アーティスト、美術史家、パンセクシュアル。中学の頃にME/CFSという病気を発症、以降車いすで生活。2023年から東京芸術大学・先端芸術表現科博士課程在籍。主に「女性同性愛と美術の関係」のテーマを研究し、ゲームエンジンやCGを用いた作品を発表する。ついたあだ名が「車いすの上の哲学者」。著書に『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)がある。ライターとしても精力的に活動し、雑誌では『現代思想』『SFマガジン』『エトセトラ』、書籍では『われらはすでに共にある──反トランス差別ブックレット』『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』など寄稿多数。
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