トム・ソーヤのように
坂口恭平の『躁鬱大学』を読み返している。そして今日読み終えた。この本はもう何回も読み返している。
こうは書かれているものの、社会で生きていくにあたって、「やりたくないことをせず、自分の心が赴くままに体をそのまま動かすということです」というのは中々難しい問題だ。社会で生きていく上には、「やりたくないこと」を引き受けていく必要がある。それを引き受けてこそ、というか、受け入れたときに、人は「成熟」するのだと思う。多分こういった考えが良くないのだろう。そこに「無理」が生まれ、「変装」することになる。坂口恭平は「素直」に生きるのが良い、という。躁鬱人の良さは「素直」にあるという。
坂口恭平という人は、物事についてとことん考える人なんだと思う。「躁鬱病」に関して、ただ薬を飲んでおしまい、という具合では納得できなかったのだと思う。だからその付き合い方をとことん考えた。その結果がこの本だ。だから人文的な解釈が生まれ、面白く感じる。ここに書かれていることを精神科医にいっても、「はい。じゃあお薬出しておきますね」で済まされそうである。
トム・ソーヤのように生活を多彩にするのが良いと書かれている。『神田橋語録』に書かれているように、「生活を万華鏡のように」するのが良いらしい。
誰にだって、安定していた頃があるはずである。僕の場合は小学生の頃だった。もちろん小学生だから、というのはあると思うが、その頃は生活が多彩だった。それが今はどうだ。人とも関わらず、一人で本を読むか、音楽を聴くか、インターネットを見ているくらいじゃないか。これじゃ参りますわな。
気分の波を安定していた頃を思い出せ。それが坂口恭平から学んだことだ。目指すはトム・ソーヤ。