僕は子供の頃からとにかく我慢ができなかった。また、何をやっても長続きしなかった。それが情けないと思っていて、就職したからには長続きしようと思い、結構我慢してきた。案の定、気分の波がすごいことになった。どうやら色々なことに手を出すのがいいらしい。僕は何かを極めている人に憧れているので、つい同じことをずっとやってしまうのだが、そうしていると必ず参ってくる。色んな人と付き合えば、薬は減らせるらしい。今となっては全然人と関わっていない。そして、僕は常に内面を観察している。これが良くないのだろう。こうみると割と安定していた小学生の時の生活にヒントがある。我慢はしないわ、色々なことに手を出すわ、色々な人と関わった。だから割と安定していたのかもしれない。
確かに、「きちんと」とか「ちゃんと」の状態になっている時は頭に血が上っている感覚がある。「気分屋的生き方をすると気分が安定する」とは格言じゃないか。別に気分屋でいいのである。むしろそれを誇るべきだ。
「この道一筋」は躁鬱病には合わないらしい。僕は「この道一筋」に憧れているのだが、どうやら無理らしい。「生活を万華鏡のようにしてください」躁鬱格言が続出している。充実感が重要なんだ。僕は幸いイジメには合わなかった。今思うと、いじめられてもおかしくないところがあったのだが、僕は結構よく笑うのでそれでいじめられなかったのかもしれなかった。また、なぜか守ってくれるような人がいつもいたのだ。
営業、水商売、介護か・・・。僕は今無職なので、就職する際には人と接する仕事を視野に入れるのもいいかもしれない。僕は18歳頃までは本が全く読めなかったのだが、これではいけないと思い、そこから「本の虫」になった。ただ、本質的に読書は向いていないのだと思う。読書をするときは体を動かせないので、それが苦痛で仕方ないのだ。僕が読書をしてこなかった理由はそこにあるのかもしれない。「部活や遊びを減らして生活を狭くするのは逆効果となります」とある。僕は中学3年生の時に不登校になり、引きこもりになったのだが、まずは部活に行かなくなり、次に友達と遊ばなくなった。そして、引きこもりという完全に狭い生活に閉じこもってしまった。これが良くなかった。やはり、参るなりの生活を選択してしまっているのだ。
以上のように、気が楽になるような語録なのだ。この『神田橋語録』を紹介してくれた坂口恭平に感謝したい。読んでいて思ったのが、要は小学生の時の生活に気分の波を安定させるヒントがあるということだ。もちろん、今から小学生のような生活を送る訳にはいかない。ただ、それを現段階にあったものにアップデートできるだろう。これからはそういうことを意識していく必要があるのではないか。要は気分の波が大きくなることを選択しているから、そうなるのだ。そうならないようなコントロールの仕方を身に着けていく必要がある。そのうえで、この語録は大変参考になるし、福音のようなものだ。
ただ、ここに書かれていることは、躁鬱病に限らず、誰にでも当てはまると思う。また、ただの解釈にすぎないのかもしれない。しかし、他の躁鬱病に関する本を読んでも、ただ参るだけなのだ。唯一の例外がこの語録であり『躁鬱大学』であったりするのだ。他の躁鬱病の本には「病気」として書かれているのに対して、この語録では「体質」と捉えている。ここが大きな違いだと思う。『躁鬱大学』でも書かれていたが、神田橋が躁鬱病エッセイを書いてくれればいいのにと思う。