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【社会】歴史の寄り道 平安③~鎌倉①編 

 みなさん、こんにちは、LITのノスケです。今回は、前回の続きで「歴史の寄り道」シリーズの第五弾として、平安時代と鎌倉時代の偉人たちの意外な一面や素の部分を紹介していきます。
 前回の「歴史の寄り道」では、藤原道長や紫式部、清少納言、白河上皇の意外な一面について話しました。まだ前回の記事をお読みでない方は、ぜひ以下のURLからお読みください。

 また、「歴史の寄り道」の初回では、このシリーズに込める思いについて話していますので、初回の記事をお読みでない方はぜひ以下のURLからお読みください!


 

平清盛ってどんな人

・平清盛って誰?

 平清盛は武士集団【平氏】のリーダーで、平治の乱に勝ったことにより、政治の実権までも握り、武士の地位を高めた人です。

・実は平清盛は〇〇だった

 「平氏に非ずんば人に非ず」皆さんも一度はこの言葉を聞いたことがあると思います。また、平清盛は天皇を閉じ込めたという話もあります。そのため、平清盛のことをとても自分勝手で、自分の利益のためなら何でもすると思っている方が多いかもしれません。

しかし、実は、平清盛は心優しいおじちゃんでした。

早速、平清盛の優しい人エピソードを一緒に見ていきましょう!

 平清盛は平治の乱で源頼朝と頼朝のお父さんと戦うことになります。平治の乱はその名の通り、平氏が政治の実権を握った乱(戦い)なので、この戦いの勝者は当然平氏(平清盛)でした。この乱で、頼朝とお父さんはつかまってしまい、お父さんは処刑されました。しかし当時頼朝は当時12歳だったので、心優しい清盛は悩んだ末に、頼朝を処刑しませんでした。敵の大将の息子を若いからという理由で処刑をしなかった清盛はとても心優しいおじちゃんだったといえますね。

源頼朝ってどんな人

・源頼朝って誰?

 源頼朝は武士集団【源氏】のリーダーで、1185年に平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた人です。

・実は源頼朝は〇〇だった

 源氏のリーダーである頼朝は1185年に平氏を滅ぼしたのですが、実は頼朝は源氏のリーダーのくせに戦いがちょ~下手でした。さっきの平清盛のところで、平治の乱で、頼朝はつかまり、処刑を免れたと言いました。しかし、清盛は頼朝に罰を与えなかったわけではありませんでした。清盛は頼朝を処刑しない代わりに伊豆に閉じ込めました。伊豆で閉じ込められている頼朝は父の仇である清盛と平氏に復讐を誓い、その機会をじっと待っていました。 
 1180年に頼朝に絶好の機会が訪れます。天皇の息子が「平氏気に入らないから、倒しちゃえ~!!」と全国の武士に命令を出します。(平氏打倒の令旨)
 頼朝からすれば、絶好の機会ですので、頼朝はすぐに平氏に戦いを挑みましたが、惨敗してしまいました。このまますぐに戦っても勝てないと考えた頼朝有力な武士を引き入れます。そのおかげで、ようやく次の戦いで頼朝は平氏に勝利することができました。その後、頼朝は弟の源義経に軍の指揮を任せてしまうので、この戦いが頼朝のラストマッチになりました。頼朝が軍を率いて平氏と戦ったのは平治の乱~ラストマッチまでの3試合なので、頼朝が指揮していた時、源氏は平氏に負け越していました。このことから頼朝はリーダーのくせに戦いがちょ~下手だったといえます。
 ちなみに、石橋山の戦いに敗れた頼朝は平氏に見つからないよう「しとどの窟」(神奈川県)という洞窟に身を隠しました。現在その洞窟は観光スポットになっているみたいなので、近くを通りかかった際はぜひ訪れてみてください!

源義経ってどんな人

・源義経って誰?

 源義経は源頼朝の弟で、源氏軍を率いて平氏を滅ぼした人です。また、彼は超絶イケメンだったといわれています。加えて、不安定な船を飛び移る「八艘飛び」ができるということは、アスリート並に運動神経抜群でした。(うらやましい…)ゲームなどで登場人物するときは、めちゃくちゃイケメンです。

・実は源義経は〇〇だった

 運動神経抜群の義経は、実はそこまでイケメンでなかったと言われています。
 えっ!さっき義経はイケメンだったと言ってたじゃんと思う方もいると思いますが、義経は、平氏側の人が書いた書物と源氏側の人が書いた書物によって全く異なるように書かれています。平家側の書物では、背が低く、出っ歯であると書かれています。
 しかし、源氏側の書物では背は低いが、容姿は端麗であると書かれています。このシリーズの第2弾「歴史の寄り道」飛鳥②編でも触れましたが、歴史とは勝者に都合のいいようにのちに書き換えられるので、義経も最終的な勝者である源氏に都合のいいようにアイドルのように祭り上げられたのかもしれませんね。

さらに寄り道 弁慶って誰?

 皆さん、弁慶という人を知っていますか。どういう人か知らなくても、弁慶という名を一度は聞いたことがあると思います。弁慶は実在した人物で、源義経に仕えていました。それでは最後に弁慶について話していきます。
 弁慶はもともと京都で人の刀を奪っていました。現代風に言うと、強盗みたいなもんですね。弁慶は刀を1000本集めようとして、刀を奪っていました。999本まで集め終わり、最後の一本を奪おうと弁慶が戦いを挑んだのが、若いころの源義経です。弁慶はこの戦いに負けてしまい、義経に仕えることになりました。
 その後、頼朝と義経は兄弟喧嘩してしまい、義経を倒すために頼朝は軍を送ります。その際も弁慶は義経を逃がすために大軍を一人で相手にし、立ったままで亡くなったといわれています。(死んでも倒れないなんて弁慶はまさしく最強ですね)
 実はそんな最強な弁慶にも弱点がありました。その箇所を人々は弁慶の泣き所と呼びました。弁慶の泣き所というのは誰もが一度は聞いたことがあると思います。実は歴史上の事柄や人物からとった言葉は意外と多いので今後も随時紹介していきたいと思います!

まとめ

 今回もご覧いただきありがとうございます。今回は平清盛、源頼朝、源義経、の学校では教わらないような隠された一面を見ていきました。このようにみると、偉人達でもイメージとは違いおかしいところなどがあったと思います。
 このように歴史を見ていくと、「あんな変な奴がこんなすごいことしたんだ~」みたいな感じで、歴史への興味が出てくるのではないかと思います。次の「歴史の寄り道」では北条政子、後鳥羽上皇、北条時宗について意外な一面を一緒に見ていきたいと思います。ぜひ次回もお楽しみに!

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