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『マルクス解体』を紐解く|レビューエッセイ#8
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第八章 「物質代謝」の解剖
まず、「物質代謝」に関して振り返ろう。
資本主義における生産過程で必要不可欠な要素、それは「労働」であった。全ての生産物は人間の労働によって形作られる。つまり資本は、ある物を、人間の労働という媒介を通して自然(社会)へと生産(物質代謝)されるのである。
このような循環的な物事の形容性が「物質代謝」である。
物質代謝の二面性
「物質代謝」には二面性がある。
一つは経済的な形態を規定している「社会的な物質代謝」。もう一つは素材(または材料)としての「自然的な物質代謝」。
「社会的な物質代謝」とは、経済が循環し成長していく様のことで、つまり、人間の消費と生産の代謝である。
また「自然的な物質代謝」は、自然にある素材が別のモノに作り変えられることであり、この二面性の主体は<人間>と<自然>に区分される。
そしてこの二つの分離が「物質代謝の亀裂」となる。
これが資本主義が生み出した割れ目であり、この途方もなく広がってしまった崖をこれから人類は修復しなければいけないのである。斎藤幸平先生的に言うならば、
”人間と自然は統一性を持つ必要がある”。
だからこそマルクスに帰り、もう一度資本と社会を見つめ直し、コモンとしての民主主義を模索していかなければいけない。
前提を整理しよう
次に「労働」とは一体何だっただろうかを振り返る。
「労働」に関してマルクスは次のように述べている。
労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。
人間は”無”から何も生むことはできない。そこには間違いなく何かしらの素材がある。人間の労働は「素材の変形」を行う生産活動であり、それは「自然の普遍的な物質代謝」に帰結する。
日本ではじめて「労働」という言葉が使われたのは明治時代のことで、資本主義が日本に持ち込まれたのも明治維新以降である。個人的な考えだが、資本主義の採用によって、人のモノづくりという生産活動が、賃金や利益を目的とした「労働」に置き換わってしまったのではないかと思う。
昔はきっと生きるために働いてのだろうが、今はお金を稼ぐ(経済を回す)ために働いている。それが「労働」の根本なんだと思う。
資本主義にとって「労働」は美徳だが、人々が生きていく中でそれは全く美徳とはならない。
「労働」は利益を生み出す生産活動であり、資本主義は利潤を追求するシステムである。
資本主義的生産の一義的な目的は、何よりも資本の「価値増殖」である。
資本と労働はとても相性が良い。利潤を追求していく資本と利益を生み出す労働。この調和は美しくさえも感じる。とても魅力的な組み合わせだ。だからこそ社会はこの二つを、美徳として認識してしまう。そして人類は自然に対して盲目となり、無意識のうちにそれを破壊し続けている。
では「労働」は悪なのか?
現代の「労働」には悪い側面が多く見られる。だが「労働」はとても人間的とも言える。マルクスもこれについては概ね同意している。
「労働」は人間特有の活動である(意識的な目的活動)
「労働」の本質は社会的活動である
加えて、「労働」は社会(人間)と自然の間で行われる「物質代謝」の媒介を行う。つまり、意識的に、かつ社会的に物質代謝(物質の交換と循環)を促進させていく活動である。
だから決して「労働」は悪ではない。人間特有という意味において、「労働」は人間と動物を区別する一要素となる。人は唯一、生物の中で自然を恣意的に作り変えることができる。だからこそ慎重に「労働」というものを取り扱わなければいけない。
なぜ「労働」は自然を破壊していくのか?
皮肉なことに、人が働ければ働くほど(生産すればするほど)自然はそれによって壊されていく。恣意的に自然を作り変えているのだからそれはそうだろう、とも思うのだが、もっと根本的な問題があるらしい。
『マルクス解体』では「デカルト的二元論」という言葉が頻出する。
「デカルト的二元論」とは、哲学者のデカルトが提唱した次のような概念の上に成り立つ世界の見方である。
”世界は精神と物質という2つの実体から成り立っている”
そしてここで、精神 → 社会(人間)・物質 → 自然に置き換えることによって、今の資本世界があるのだという。これは資本によって人間と自然が独立しているという主張に他らない。歴史的には二元論という性質こそ、その認識的な亀裂こそが経済発展とエコノミズムの間にある矛盾であった。
この二分により、労働者は静観的な態度でしか自然へ参画することができない。人々は資本主義において、自然の一部にて生産活動を行っているにも関わらず、全体としての自然には関与することができないのである。これを皮肉と言わずになんというのだろう?
この問題の中で、やはり鍵となるのが「物質代謝論」である。
そしてこの二元論に対して、『マルクス解体』の中でルカーチの新たな概念が登場する。
ルカーチの概念はこのようである。
自然の不断の過程において、人間と非人間的自然が連続性を持つという「存在論的一元論」である。
このアプローチは、自然と社会を「物質代謝」という一元論的な枠組みにおいて把握しようと試みなことが分かる。
「デカルト的二元論」と「ルカーチの存在的一元論」。
前者は既に手遅れだ、という諦めの姿勢が感じられるが、後者のルカーチからはまだまだこれから、という気概が感じられる。つまり二元論による亀裂(人間による自然の破壊)を、人間と自然を一元的に考えて修復していこうということなのではないだろうか。
なぜならば、『マルクス解体、』が叙述するように、「人間と自然は統一性を持つ必要がある」からだ。
次回は「生産」「価値」にフォーカスしていく。
Mr.羊