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自分の反応や反応の回避に使われるんじゃなくて、落ち着いて自分とつながり、願いを選択したい

今週頭に2時間超えでじっくり内省するサポートをしてもらう体験をした。

今年5月からメンタルモデルのLearningCircle(※1)の講座やNVCの講座、由佐美加子さんのコミュニティで皆さんからシェアされることで自分の反応するスイッチになっていること、反応のパターン、そこからの対処行動、その影響を眺めてきて、今回の個人セッションですごく腑に落ちたことが在る。

それは私は自分が小さな頃から大切にしたいこと、願うことが在って、それができなかったり、大切にされなかったりすると反応が起きる。

そしてその反応があまりにも悲しかったり、すごく痛いので、それを回避するためにいろいろ試してきた。

そこで上手くいくやり方が自分自身となって、性格のようなものや対外的に見える私を形作ってきた。

でもそのせいで本当の自分は見えなくなっていたり、出せなくなっていること。

そしてそれが自分の願うことを叶えることを難しくしていること。

これらは昨年から由佐さんの世界に触れる度に感じてきたけれど、今回本当に自分の願うことをことごとく邪魔していることが見えた。

それがとても残念だし、悲しい。
反対に自分でその対処を編み出し、願いを叶えることから自分を遠ざけているという矛盾、コメディを感じている。

何に反応しているのか

起きるできごとや誰かの言動に触発され、翻弄される。
反応するから願うことができない。

それが起きているんだなとたくさんの自分のパターンで確かめられた。

願いが強いことほど、怖れも痛みも強いんだなと改めて感じた。

そして怖れや痛みに向き合わないように願いを諦める。
または怖れや痛みを体験しないような形で何とかしようとする。

どっちも願いを叶えることが難しいんだともらったアーカイブ動画をじっくり聞きながら、一つ一つの事柄で眺めてみて、痛感している。

怖れや痛みを体験したくないからと願いに意識を向けて言動を選択することを避けてしまうと、願いは叶わない。

また怖れや痛みを体験しないようにやっていることのせいで願いが叶わないんだと痛感した。

曖昧に表現したり、
人と向きあわないまま自分の中だけで考えていたり、
人と関わらない場所や内容でしかトライできない

それも願いは叶えられないんだと。
書いてみると当たり前のことなんだけど、私の中でそれが起きていたんだなと一つ一つのできごとで理解できた。

私はやっぱりどこか逃げてる。
逃げてるから本当に願うことを体験できない。

それは何であっても同じだなと思う。

例えば絵を描くことが願いだけど、
評価や否定が怖くて、隠れてやっているとか
描くことをやめてしまうとかと同じだなと。

子どもが勉強しないのも、勉強で結果を出したりいけど、
一生懸命やって、できない体験をすると痛いから勉強してないからしょうがないと言っている感じ。

でも本当は願うことが在る。
それを信じたり、挑戦することが難しい。

私は願いの周りのことを挑戦して、お茶を濁している。
挑戦しているという免罪符で、何とか情熱を宥めてる。

でもやっぱり諦めれないくらいその願いが強いんだなということも今回のセッションで確かめられた。

一人で反応や結果を観ることやそれを乗り越えることは難しい

一人で自分の反応やその結果起きること、自分の現実を創り出してしまうことに気づくのはとても難しいと思う。

自分の反応や回避行動は正当化されていて、対処としてはとってもまっとうなものだから。

でもその結果何が起きているのか、周りの人や自分の現実にどんな影響を与え、それが自分に跳ね返ってきているのかを眺めていくと、それがどんなに自分が望むことから遠ざかっているのかに気づく。

それをするには安心して自分につながることが必要になる。

自分につながった時にダメな自分や足りない自分、在ってはならないことに出会う気がすると心がブロックする。

そのせいで本当に在ることを眺めることができなくなってしまう。

ここに今までの社会の評価、否定、改善、成長などの言葉が大きく影響している。

何が在ってっも大丈夫だと共感的に聴かれることがとても大事

それを受け止めるには人間の中に在ることはどんなことでも意味が在って、在ってはいけないものなんて無いんだと実感している人から共感的に聴かれることが本当に大事だなと思う。

まず自分の中で評価や否定、抑圧、拒絶などが起きている。

それさえも共感できる人。

本当にあっという間に評価が入り、否定や強制、隠す、抑圧、拒絶などが起きる。

でもそれが自分につながれない原因でもある。

その自分の反応も共感、受容してもらいながら見にいくことが本当に大事だなと思う。

息子たちとの対話でも、一瞬でも私が怖れや不安、焦りに飲み込まれてしまうとサッと扉が閉まるという体験を何度もしてきた。

そしてまず自分の中で何が起きたのかを感じて、共感、受容して眺めて、それを子どもに明かして、子ども達が私の反応で何を感じたのかをフィードバックしてもらってきて、反応が反応を引き出してしまうんだと痛感している。

在るものをあるがまま眺め、それに共感し、受容するところからしか、本当にどうしたいのかにつながれない。

怖れや痛みを避けるように表面的に合わせたり、対処はできる。

それが今までの子育てや教育、職場で使われてきた力だ。

脅し
バカにする

劣等感
罪悪感
正しさ
理想
立場に課されているもの

たくさんのものが使われ、自分がダメだ、未熟だと思いたくなければ、
または所属やつながり、受け入れてもらえる、尊厳、存在を脅かされたくなければ、求められる言動をするのだと散々叩き込まれている。

だから私たちは反応が起きる。
危険だと脳、神経系、身体が反応し、サバイバルモードになって、即座に反応するしかなくなってしまう。

そして自分がどうしたいかを考えたり、そこから言動を選択できない。

これが起きていることを理解し、それらを引き起こしている痛みや怖れが在ることを共感し、受容できる人に聴いてもらって、在ることを見にいくこと。


反応から自由になるには

反応から自由になるには安心して自分につながることだなと思う。

そしてそれを支えてもらう体験を何度もすること。

  • 自分の反応を理解し、共感し、受容する力をつける。

  • 反応をホールドしたまま、自分につながる余白を自分に与える。

  • そこで本当はどうしたいのかをじっくり感じて、選択する

  • その選択を挑戦してみる

これらを少しずつトライしていくことだなと思う。

小さなことから少しずつ。

そしてトライした時に難しかったこと、怖かったことなどをまた共感的に見ていくこと。

そこもすぐ評価、否定が走る。

それだけ評価や否定が染み込んでいる。

その反応にならざるを得ないこともじっくり感じて、本当に嫌なんだなと感じていくことだなと思う。

反応がダメだと思わず、反応をありのまま在ってもいいとホールドする。
それができるから反応を眺められる。
このパラドックスを受け止める。

在るものを在るがまま眺めて、一つ一つ丁寧に感じていくことやそこで少しずつ気づきや理解、選択、挑戦するプロセスが本当に大事だから。

また形だけテクニック的にやったり、自分に正しさとして課したり、できないと自分を責めるのは今までの人への関わり方で、それが原因でこうなっているから、そこから距離を置きたい。

人は体験して、感じて、気づいて、選択していく旅をしている。その過程をジャッジすることに意味は無い

人はいろいろな経験、体験をしながら、そこから感じること、気づくことが在って、それが次の選択につながっている。

それをしながらこれは自分が望むものじゃない、これこそ自分の望むものだと分けていけるんだと思う。

そこには体験と感情とそれをするスペース(時間と空間)が必要になる。

そこを邪魔しないことがとても大事だなと思う。

また一人一人その旅やプロセスは全く違う。

その時に体験し、学ぶことが違う。

そこの一場面を切り出して、評価や否定することが本当に意味ないなと思う。

不快や不満が在るのは自分の感情とニーズで自分につながって、ニーズを明確にしていけばいいこと。

また相手に協力やお願いが在る時は正しさではなく、協力やお願いとして表現すればいい。

どうしても力がある人、表現する人の声が大きな意味を持ってしまう。

そこも自覚することが大事だなと思う。


在ることをあるがまま感じ取れないことがどれだけ勿体ないことなのか。

人間の成長のプロセスの中で自分の中に在ることを感じ取れないことがどれだけ勿体ないことなのか。

そこに自分の思い込みも在るし、
反対に願いや大切にしたいことが在る。

そのために使える自分のリソースもたくさん在る。
情熱、好奇心、感性、特性、潜在能力などたくさんの宝も自分とつながるから気づけるし、活用できる。

そこにアクセスする為にも反応と反応の回避行動に終始してしまわないことがとても大事だ。

安心して、脳、神経、身体が落ち着ているとそこにアクセスできるし、その力を使える。

自分や他の人にもそこにアクセスできるような関わりができたらいいなと思う。

子ども、パートナー、両親、職場の人など身近な人に反応することが多い。

でも一番反応する人が大切な人や身近な人。

一番わかってもらいたいし、サポートしてもらうたい人でもある。

そこで反応に巻き込まれ、お互いに共感的に聴いたり、受容したり、サポートすることが難しい。

そこで自己共感、自己受容がとても力になる。

自分の内的世界と相手の内的世界にしっかり境界線を引くこと。
完全に依存したり、被害者にならないこと。

ニーズカードや共感サークルで自己理解、自己共感、自己受容や自分の中に在る願いや力に気づくことが力になると感じているので、今後も続けていきたいと思う。

また共に在ることを受け止めたり、それがなぜおきるのかを探求したり、そんな時に自分や大切な人に何ができるのかを創造していくラボを立ち上げたいなと思っている。

共に探求・創造したり、アイデアを出し合う対話ができる人が増えるといいな

それがどんな形でできるのかまだわからなかったり、反応は四六時中起きる。

それを在るがまま聴いて、そこに何が在るのかを安心してシェアし合える人が増えるといいなと思っている。

私個人の勝手な願いだけど、それはそれぞれの大切な人、身近な人との安心した関わりの力になると感じている。

一緒に感じていること、在ることをシェアしたり、語り合えたらいいなと思う。

それが出来るほど安心して自分で居られる力が得られると感じているから。

反応すること、いろいろな気持ち、体験してきたことから難しさなどをありのまま在ってもいいというところから語り合えることができたらいいな。

経験、環境、親との関わりやコミュニティ、願い、価値観など違いが在るからそこに何が起きているのかに気づけたり、本当は何を願うのかを探求できたり、新しいやり方を考えていけると思う。

白いハコでのお店番やその他の場所で会った時にもお互いの感じてきたこと、願うこと語り合えたら嬉しいなと思うので、何でも話しに来てもらえたら嬉しい。

自分や子ども、パートナー、両親、周りの人とどう関わっていきたいのか。
その為にまず自分に何ができるのか、どんなサポートができるのかを対話していきたいなと思っています。

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