『ちはやふる』の意味
『ちはやふる』という漫画をご存知だろうか。とにかく耳がいい千早という少女が競技かるたで日本一を目指す話だ。
僕はアニメしかみていないのだが、『ちはやふる』では第一話が一番好きだ。他にもいろいろ好きな話はあるが、一番好きなのは一話である。これは「どうして僕は一話が好きなのか」について自分の人生になぞらえて考えてみるという、個人的な記事である。
以下では一話のみのネタバレを含みます。
一話のあらすじはこんな感じ(高校生部分カット)。
千早の小学校では家が貧乏な転校生の綿谷新がいじめられていた。千早が綿谷新に興味を示し綿谷家に遊びに行くと、綿谷新は千早をかるたに誘う。千早は綿谷新と一緒にかるたをすることで、綿谷新のかるたに対する情熱を発見する。さらに、そこで千早はかるたの才能の片鱗を開花させる。
ちなみに綿谷新のかるたのシーンがカッコイイ。畳がまるで水面であるかのように、床の裏からかるたを描くというのはいいアイデアであった(これについてはオープニングムービーの0:48あたりを参照していただいてもよい)。
僕は今まで、綿谷新は「天才」というキャラ設定だとばかり思っていた。だから千早と綿谷新との出会いは要するに、「世の中には天才がいる」ことに気づくということなのだと思っていた。しかしそれは違うかもしれない。
綿谷新が強いのは天才だからではない。綿谷新は高度に訓練されているから強いのだ。つまり綿谷新がすごいのは、「小学生にもかかわらず訓練に適応できている」という点なのだ(もちろん適応できるのは、綿谷新に適度な才能があるからには違いないが)。
だから千早は綿谷新から「情熱を知った」とは言ったが「天才を知った」とは言わない。太一や肉まんくんなどは「綿谷新は天才」という発言を繰り返すが、千早はそういうことを言わない。
僕も小学生のとき、習い事などで「超人」と言いたくなるような、綿谷新のようなスーパー小学生をみてきた。算数がめっちゃできる小学生や空手がめっちゃ強い小学生や何時間でも走れる小学生などである。そのとき僕は彼らを「天才」と思った。だがそれは間違いだった。彼らを「天才」と思うというのは、自分を凡庸とみなすことである。
なぜ一話が一番好きなのか。
それは僕の人生が一話で止まっているからである。
僕の人生は、綿谷新を「天才」とみなす間違いによって前に進めなくなっていたのかもしれない。
綿谷新を天才だと思うのは、いわゆるエリート・イケメン・卑怯者なる太一ルートの人生である。それはそれで素晴らしい人生であろう。だが僕はそちらの世界に憧れがほぼない。
感じの良さを追い求める千早ルートの人生は、もっと貪欲なものである。圧倒的な実力者を前にしたとき、才能ではなく情熱が重要だと見抜く感性の鋭さが僕の人生を前に進める。
青年期では、才能と情熱を比べると本当は情熱の方が重要であり、情熱の方が価値があり、そして我々は住む家は感性の神殿なのである。
僕の人生はようやくまた前に進めそうだ。