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死に損ない

10月27日、人生で始めてODをした。二十歳を目前に控えていた。
いわゆる一時的な気持ちの紛らわせではなく、完全に自死目的だった。

今まで何度も試みたことはあった。
でも、心のどこかでどうせ死ねないし、という希望なのか諦めなのか恐怖なのか得体のしれない感情が渦巻いていた。

この「どうせ」という言葉は年中の時、「二度とつかわないように、ママと約束して」と言われた言葉である。
名前も知らない駅の小学校受験用の塾の授業の帰りで、なぜ自分が髪を整えて紺色のワンピースを着て日曜なのに勉強しているのか訳もわからなかった。

高校3年生まではのどに出かかった瞬間あの日の母の顔を思い出して踏みとどまっていたが、今は月に一度くらいは使ってしまう。
約束を忘れたことはないし、忘れることもないと思うが、ふと無意識に使って口に苦いものが広がるのだ。

普段は死にたいと切望しても心配性な性格が作用して、odで死ねなかった際の副作用を調べて、怖くなって踏みとどまっていた。

でもあの日は違った。

死ねるとも思わなかったし、死ねないとも思わなかった。
ただただ「今ならいける」と思っただけ。

気持ちのままに、気づけば処方されていたレキサルティをぷちぷちしていた。

脱水かわからないけれど、すぐに気持ちが悪くなった。

体が無性に炭酸を求めていて、普段では考えられない行動力でスーパーへ向かっていた。

スーパーまでどうやって行けたのだろう。

閑散とした無人レジに立った瞬間、気持ち悪いとかそんなものではなく、ただ膝から崩れ落ちた。レジの機械に思い切り鼻を強打して、今も触ると嫌な痛みが走る。

なぜか涙が止まらなくて、久々に滝のような涙を流した。

ふらふらと、何度も道端にしゃがみ込みながら家へ帰った。
帰りたくなくても、そこしか場所がないのだから。

ベッドになだれ込んで、数時間寝込んだ。

せっかく買ってきたコーラには一口も口を付けなかった。

ふと目が覚めて、真っ暗な部屋の中に星が舞うのが見えた。吐き気がえげつなくて、冗談抜きに生死の間をさまよった。

でも、これで分かった。

自殺って、本当に決めてやるとかではなく衝動なんだ。

今ならいける、気づいたらぷちぷちしていた。


一週間、副作用に苦しんだ。

薬傷で全身に水膨れのようなものができた。ひどい吐き気と立ち眩み、頭痛。

それらは、私から死にたい気持ちを奪っていった。

楽になりたくて死にたいのに、あんなに辛い思いよりもさらに苦しまないと死ねないんだって現実的な諦めを見た。

死ぬよりも苦しかった。


私を鬱たらしめた要因はいくつかあって、今回のトリガーはそのうちの一つの家庭環境だった。

幼少期から離婚話が絶えない家庭ではあったと思う。

父親のいない場でも、母親の機嫌を損ねると「貴方はパパについていってね?」とヒステリックに捲し立てられた。

ヒスにも何パターンか種類があって、今でも脳裏にこびりついて離れないのは「次のお名前は何がいい?〇〇とかかわいくない?」と言われたこと。

これを言われたのは小学4年生の頃。中学受験の塾に9時10分までしごかれて、へとへとになって帰った来た日だった。

私たち姉妹の名付け親は両親ではなく父方の祖母だったため、離婚と共に改名を提案されたのだった。


夫婦喧嘩をしている時、大抵父は言い返さない。ただ静かに悲しそうな顔をしている。

職場でも大変だろうに家に帰ってきてこの様子じゃ、いつか過労死してしまうのではないかといつも怖かった。

小学生低学年にしては嫌な心配をしていたものだ。

そのうち過剰に怯えるようになり、救急車のサイレンが聞こえただけで父が倒れたのではないか?パトカーのサイレンが聞こえただけで何か起きてしまったのではないか?と震える癖が未だに抜けない。

今だって、帰りが普段より遅いだけで「〇〇線、人身事故」やら「東京都、事故」等調べてしまう。過労死のニュースを見た日は悪夢を見る。



母の機嫌は時限爆弾で、父は気分屋だった。

いつからか父は母の機嫌を取ることを覚えた。

厄介だったのが、私と母のちょっとした口論に口をはさむことである。

何も知らないのに、母の機嫌を守るために私の主張を一切聞かず高圧的な話し方で威圧する。あ、書きながら涙が出てきた。

いつからか、父親を見ると緊張するようになった。父と話そうとすると、涙が出るようになった。

そう、odした日もそうだった。

何も知らない父が高圧的に𠮟りつけてきたとき、それまで耐えてきた何かが決壊してしまった。



ずっと親の顔色を伺って生きていた。

父方の祖母に男の子を生めなかったことでずっといびられている母は「私が男の子を生めなかったから。失敗したから」と言った。

第一志望校の小学校に合格させられなかったことを深く反省しているらしい母に「ごめん、教育失敗したから」と耳にタコができるほど言われた。

せっかく先輩がかわいがってくれて入った部活も、高校受験の最大のモチベーションであった部活も諦めて塾に通った。

それでも自分は自分の夢に向かって進んでいると思っていた。でも、自我を喪失していたみたいだ。

心の底で、常に親に謝り続けていた気がする。

直接「失敗作」だなんて一度も言われたことはない。

だけど「貴方の教育を失敗してしまったから」そう何度も何度も言われるたびに、自分は失敗作だと心の奥底に刷り込まれていったようで。自尊心に傷がつけられていって。

自分は失敗作なのか?いやそうじゃない、成功だよ。そう思ってほしくて、そう思いたくて、がむしゃらに走ってきた。

そしてとうとう、自分が将来の夢として物心ついてからずっと掲げていたものの志望動機が言えなくなった。手が動かなくなった。

いつしか自分の夢が、親の希望を叶えることになっていたのかもしれない。

自分の口癖が「ごめん、自分不出来だから」になった頃。
うつ病だと診断された。

歩いているとき、ふと車道へ飛び込むタイミングを伺ったり、歩道橋を見つけると飛び降りれるか計算したり、ただただ立っていられなくて急に道端にしゃがみ込んで消えてなくなりたくなった。

自分のことを考えた瞬間、まだ何も思い浮かんでいないのに涙が止まらなくなった。嗚咽は出ない。ただ涙が止まらなかった。

どこで間違えたんだろう。

死にたいと思わないで生活していたころの自分が思い出せない。

健全なメンタルって何だろう。普通って何?鬱じゃない状態ってどんな?もう何も思い出せない。毒されている。脳を、鬱が食い尽くすのだ。

これだけが鬱になった理由ではない。正確に言うとこの精神状態は約5年前から続いていて、悪化して正式に診断をもらったのが今年だったのだ。



うつ病の症状の一つである過眠は、私の生活を壊した。

全く寝ないで1週間過ごせることもあれば、毎日18時間寝ないと起きていられない週もある。

そんな生活をしていると、深夜に目が覚めることも少なくない。

気づけば、家にいる息苦しさから逃げるために深夜の散歩が習慣になっていた。

コンビニで買ったアイスをかじりながら、誰もいない大通りを渡るととても大きな高揚感が訪れた。世界に私しかいないようだった。

家が近づいてくると、苦痛で仕方がなかった。

家に着き、犬を起こさぬよう最小限の灯りで夕飯の残りを食べる。ゴキブリになったかのような気分だった。惨めだった。でも脱出口が見当たらなかった。

今日もまた、そんな日だった。

ゴキブリになった気分で朝食か夕食かわからない食事をつまんでいると、起きてきた両親が離婚話を始めた。

ヒートアップする母、時間になったから小さな声で行ってきますと家を出る父の後ろ姿。

今日もまた、惨めな自分が擦り切れる感覚がした。


































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