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映画を探しています

眠れなかった深夜から早朝にかけた時間、人生で一番苦しくなる。自分の惨めさに打ちのめされて、また朝を迎えてしまったことに苦しくなる。苦い。昨日は躁状態だったのだと思う。楽しくて楽しくて、私は何者にもなれると信じて疑わなかった。きっと一昨日、お酒を飲んだ後にクエチアピンを飲んだからだと思う。効きすぎちゃったんだ、きっと。私は残念ながら相当お酒に強いようで、試しに以前缶酎ハイを1.5㍑飲んでも酔えなかった。よく、「酔って気分がよくなった」とか「悪酔いして醜態を晒した」とか言うけれど、そもそも酔えないのだ。かるーく頭痛がするくらい。だからあの気分の良さが、恐らく慣れてはいけないものであることに絶望している。

気分の良さが覚めてきた私はまだ眠れなかった。進撃の巨人を流し見しつつ、あの心の叫び声が聞こえないふりをしていた。そして、買ってきた花の茎が傷んでいるのを発見して嫌になる。変な時間に起きていると、また惨めな気持ちがわき上がってくる。思い出した。私のトラウマを。
 
 
そこでタイトルに戻る。
誰か、この映画を覚えていないだろうか。約10年前、夏の土曜日の昼下がりにリビングで父と妹が見ていた映画。

ごく普通の夫婦の間に、一人の子供がいた。そして何らかが原因で離婚。父親は今で言うニートのような状態になった。恐らく親権は母親にあったものの、ある日父親が子供を拐う。父親と子供はぶらぶらと旅をする。そして、2人でプール?海?にぷかぷか浮かんだ。時間が来て、子供を駅に置いて影で母親と合流する様子を見て、映画は終わる。

ざっとこんなシーンしか覚えていない。けれど、その時の父親役の表情とそれを見る父親の表情が忘れられない。そもそも離婚というのが子供にとって望ましくないことなのは重々承知していた。だけどこの馬鹿感受性の強い感受性お化けの私は、あの映画を眺める父の表情が忘れられない。あの切なそうな、なんと表現して良いのかわからない表情が定期的に脳裏に蘇る。多分これがきっかけだと思う。私が過剰に離婚話を怖がるのは。何でだろう、こんなささいなことで感情の波にのみ込まれてしまう。そして次々とトラウマだった物事がよみがえってくる。ただ物事が蘇るだけならいいのだけど、いちいち表情が蘇ってくるから面倒くさい。何事も慣れれば怖くなくなるはずなんだけどね、どうしてもこれだけは慣れられない。私はこの感受性を持ち余している。この感受性の強さが許せない。めちゃくちゃ面白い話なんだけど、高校の入学式で隣の人と自己紹介しあって第一印象を書き合う時間があった。たったの一分の自己紹介なのに、書かれた印象は「感受性が強い」。何で?何で何で?たった一分で伝わってしまう私の感受性って何?感受性の強さだけはどうも自分でコントロールできない。些細なことまで感じ取ってしまって、尚且つ記憶力の強さで全て明細に記憶してしまっている。大抵のことは何となく日常を過ごしている内に忘れた「ふり」が出来る。だけど、ふとした瞬間にその記憶のメモリがぶぁーっと湧いて出てくる。もう嫌になるよ、自分でも。私はやっぱり生きるのに向いてないのだと思う。悪い意味で繊細すぎる。繊細というか面倒くさいというか。生きるのが怖い。生きるのが辛い。なのに私は無意識に呼吸しするし、食欲を無視できないし、排泄もする。結局私は生きることをやめられない。こんなにも死にたいのに、意志が軟弱すぎる。昨日、小さな小さな前向きな一歩を踏み出した。なのにもう足が震えている。もう一歩を踏み出せる気配がしない。何でみんな頑張れるの?何でみんな朝を迎えられるの?何で私はこんなにも粗大ごみなんだろう?もう私の心が息してない。心に縄がかかって、キリキリと締められている。何で私は生きているんだろう。こんなにも眩しい朝が憎い。眠くもならないから逃げられもしない。私はまた希死念慮という怪物と戦う1日を過ごしそうだ。


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