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懐かしい未来

魔法使いの弟子   7

 その旅は、瑞浪インターから高速に入り、関ヶ原で下道に下り敦賀を目指す旅となった。  
 が、中央道に入って間もなく土岐市を通過すると、シャンタンは言葉少なくなり、後ろのシートに体を横にして寝込んでしまった。

 アインシュタインは、少年の頃の夢うつつに光の速度に追いついた自分のビジョンを、その後理論化するまで追求し、現代の科学を切り開いた偉大な天才科学者ではあるが、人生の後半には自信の理論の影がついて回ったと伝記本で読んだことがある。

 第二次世界大戦のナチスと連合軍の間で(もちろん日本も深くかかわりながら)、相対性理論から核分裂によって巨大なエネルギーを導く計算が実現に向けて進み、核爆弾の開発が現実のものとなり、広島と長崎に投下された。

 アインシュタインは、直接には加担したわけではなかったとはいえ、当時のアメリカ大統領に手紙を書いたりしたことから、「マンハッタン計画」が時代の波に乗り勢いを得たという事らしかった。

 それを悔いた後半の人生を平和運動に積極的に関わったりして、映画スター並みの人気者ともなり世に知られた存在ではあったが、彼の生みだした量子物理学には最後まで異論を唱え続けたともいう。

 原子力発電もその過程で現実のものとなって広がったが、「核融合研究所」というのが、土岐市にはあった。
 シャンタンの言うには、核融合の理論は実現可能ではあるが、まず人類の意識の融和が先行する必要があると、よく話していた。

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