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カラマーゾフの兄弟ファンが観る野田秀樹『正三角関係』

さる7月27日に、東京芸術劇場にて観劇した。松本潤主演『正三角関係』。
かねてから野田秀樹演出の作品に関心があった私にとって、非常に刺激的な劇だった。

時に、私は10年あまり前から『カラマーゾフの兄弟』ファンである。
本劇の原作である。

野田秀樹は「原作を分かった気で来ると危険」と、事前に挑戦的なコメントを発していたが……元々原作を愛好してきた日本人からの感想も、またこの劇の一つの意味ある感想になるはずだ。

観に来る前に、原作の小説をお読みになるのは勝手ですが、大変骨が折れ心が折れます。かといって、ネットで粗筋を読んだり、アマゾンでマンガを買って読んだりして、わかった気になって観にくるのが、心に最も危険です。

野田秀樹公式事前予告より

正直、10年ファンをやっていても原作をわかったとは言えない(野田秀樹もきっとそうだろう)。
が、観終わって原作の情報を探している観客もいるだろう。

文学とは答えがないものだが、あえて書いてみたい。

不勉強や無知は、ご指摘いただきたい。

※以下、当然ながら、『カラマーゾフの兄弟』『正三角関係』二作品のネタバレを大幅に含みます。今後配信等がある可能性もゼロではないので、知りたくない方はお気をつけください。※
※24/8/9追記:戯曲が出たそうですね! あとで買ってセリフを直します。※


1.ミステリーのプロット-意外なウワサスキー夫人

まず、舞台を『カラマーゾフの兄弟』翻案としてざっくりと総括したい。

率直な感想として、あの長い長い複雑な原作を、巧みに抜き取って再現していると感じた。さすがに大ベテランの鬼才、野田秀樹だ。
ただし、それは「ミステリーのプロット」に関してである。

舞台『正三角関係』は、松本潤という非常に魅力的な役者を迎えて、唐松富太郎からまつとみたろう──原作におけるドミートリー・カラマーゾフを翻案した人物──を主役に再構成されていた。

ドミートリー・カラマーゾフは、カラマーゾフ家の長男。父親と金銭および女性をめぐって対立し、父フョードルが死んだとき、父殺しの嫌疑をかけられる人物である。
原作でも重要な役割を演じることには違いないが、わざわざ作品に付されたまえがきで「この物語の主人公」とされているのは彼ではない。
三男・アレクセイ・カラマーゾフ──舞台では唐松在良からまつありよしとして、長澤まさみが演じていた人物だ。

この三男(愛称はアリョーシャ)は、非常に評価がむずかしい「主人公」である。
原作において、彼は目立った行動をしておらず、基本的にはさまざまな人の話の聞き手として立ち回る人物だ。(※1)

※1 
聞き手としてのアリョーシャに関して、ロシアの文学理論家ミハイル・バフチンがドストエフスキーの作品について「対話」を中心に読み解いた、『ドストエフスキーの詩学』が参考文献としてあげられるかもしれない。兄イワンとの印象深い会話のシーンが取り上げられている。

原作通りと見るか原作改変と見るか……『正三角関係』舞台を観ても、在良は比較的印象が薄い。
尊敬する神父とのコミカルな問答や、ラストシーンの聖堂の使い方は、印象的でおもしろい。
しかし、ではそこにいた在良は何をしたかと言われると……基本的に人の話の聞き手、あるいは兄たちの擁護者である。

「ではしっかり原作通りではないか」と思うことも可能だが、二人の兄と直接関わらない、三男自身の人間関係は、やはり大幅なカットがあった。

たとえば、幼馴染のリーザ。彼女は、アリョーシャに恋をしている描写が散見され、目立つ登場人物ではないものの、終盤にかけて次男イワンとも関わりドラマを見せる。
また原作中盤から、アリョーシャと交流する少年たちが登場するが、彼らも翻案されてはいなかった。少年の一人は元々、長男ドミートリーに父親が侮辱された恨みを持つ登場人物である。最初はカラマーゾフ家を恨んでいるものの、アリョーシャの導きによりカラマーゾフを敬愛するまでになる。

これは、「あれがないじゃないか!」という、否定的な批判ではない。
表現媒体を変える時、作品は当然媒体に合わせて姿を変えるべきであるからだ。
むしろ、『カラマーゾフの兄弟』の性質を考えると翻案の一手法といえる。
なぜなら、原作は「複数のジャンルの融合作品」として作られた小説だからだ。

三男アリョーシャは劇での翻案にも表れていたように、キリスト教を信仰する登場人物である。
先にもふれた次男のイワンは、知性を象徴する登場人物。
長男ドミートリーは、愛と激情に生き、父殺しの嫌疑をかけられる人物。
いかにも三人バラバラな印象だと思うが、その印象は的を射ている。

『カラマーゾフの兄弟』章題を追うと、三男が重要な役割を果たす章には「伝記」「告白」といった言葉が使われていて、宗教色が強い。
次男の章には有名な「反逆」といった挑戦的な言葉や、場面のセリフの抜き出しが。
そして劇の主役のモデル、長男ドミートリーには「検事」「論告」といった警察・裁判用語を含む章が当たっているのだ。

小説は、各章を抜き出せば全くジャンルが違うように感じるさまざまな要素を、一つの作品の中に詰め込んでいる(※2)。だからあんなに長いのだ。
※2
ドストエフスキー専門家も、作品のこうした特徴的な多ジャンル性に触れている。例として番場俊氏の本のリンクを貼っておく。

舞台は小説に内包された多くの内容から、ドミートリーを中心に物語を再構成した。
その結果浮かび上がってきたのが、「ミステリーとしての『カラマーゾフの兄弟』」だ。

『正三角関係』は、裁判を物語の主要な舞台に据え、裁判の日からのプレイバックの形で作品世界を描いていく。
原作で裁判が始まるのは最終盤だから、これは思い切った、かつ緊迫感あって秀逸な改編だ。(先行例として、他にも裁判シーンから始まるメディアミックスがあった気がするが、ちょっとどれだったか思い出せない。あの長い作品を圧縮するならそうだろうという気もする。)

プレイバックされる個々のエピソードも、「グルーシェニカとは何者か?(※3)」「なぜ富太郎は父親を殺すことを思いとどまったのか?」「父親・兵頭ひょうどうが持っていた箱の中には何が入っていたのか?」など、小さなミステリーを解きながら進んでいく。
原作にもこれらのミステリーの「要素」は含まれているが、長い作品のあちこちに散逸しており、舞台ほど連続では示されていない。(※4)

※3 
この舞台での「グルーシェニカ」の扱いは、非常に面白かった。グルーシェニカという女性を非人間の物体として扱ってしまう作品というと、伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』のことも想起する。野田秀樹が先例を知っていたのか、それともグルーシェニカという形象に思わずそうさせたくなる何かがあるのか?

※4
ミステリーとしての『カラマーゾフの兄弟』の読みについては、江川卓『「謎解き」』シリーズが代表的な手引きになる。

そして、私が「ミステリー」としての『カラマーゾフの兄弟』翻案として、何より面白いと思った点を紹介してこの節を終わろう。
ウワサスキー夫人の存在である。

ウワサスキー夫人はロシア領事館と繋がりのある情報通として登場し、ロシア人の血をひいている。
ウワサスキーなどというおかしな名前は、当然原作にはないもので、この人物の面白おかしさを見ると、舞台オリジナルキャラクターにすら見えるかもしれない。

しかし原作にもしっかりモデルの登場人物がいる。その名はホフラコワ夫人である。

ホフラコワ夫人は、先に触れたアリョーシャの幼馴染、リーザの母親である。
資産家でミーハー、情報通なのは舞台と同じ。
さらに、富太郎にお金を貸す貸さないの、舞台でも尺を割いたコメディタッチの場面はなんと、日本に移し替えられているものの、ほぼ流れが原作ままだ。

リーザや少年たちの存在がカットされる一方、驚くほど印象深く舞台を彩った、ホフラコワ夫人翻案のウワサスキー夫人。私はこのことを面白く眺めた。
『カラマーゾフの兄弟』を「ミステリー」として読む時、ドミートリーの命運を左右し、どの人物の背景も知る情報通の夫人は、抜かせない登場人物となったのだろう。(※5)

※5
ウワサスキー夫人を演じた池谷のぶえ女史は、野田秀樹舞台作品の常連であり、彼女が演じるに相応しい人物としてホフラコワ夫人が選ばれた可能性も大いにある。

また、原作『カラマーゾフの兄弟』を知っていてもなお匂わされる、舞台『正三角関係』だけの謎。すなわち戦争のバックグラウンドをしっかり語るにおいても、彼女は不可欠の狂言回しとなった。日本人だけでは知り得ない情報を持つ視点が必要だったためだ。
戦争については4.ではっきりと語る。

ミステリーとして『カラマーゾフの兄弟』を描きなおすとき、ホフラコワ夫人が重要な役割を果たすというのは、私自身が興味深かった点である。

2.不在のスメルジャコフ-墨田麝香の造形

1.では、舞台がミステリーとして『カラマーゾフの兄弟』を翻案したことで生まれる面白さについて書いた。
一方、ミステリーとして『正三角関係』を観るなら、何か物足りなさを感じられた方もいるのではないか?

冒頭近くから無言で舞台上に座る、不気味な浮浪者らしき姿。
途中までは、富太郎のさまざまな会への集合を邪魔する人物として、名前だけが飛び交う「墨田麝香すみだじゃこう」。
彼は中盤〜終盤で突然、事件との繋がりを指摘され、すでに死んでいるながら、二人目の容疑者として引っ張り出される。
貴重なウラン鉱石の火薬を唐松兵頭(父)と組んで融通した人物として、自殺に見せかけロシア領事館に処分された可能性があるというのだ。

私が舞台を一緒に鑑賞した同行者は、『カラマーゾフの兄弟』原作を全く知らない状態だった。そしてこの人物・麝香について、「急に出てきた」という感想を漏らしていた。
確かに、殺人事件の謎解きとしては、少し伏線不足に見える脇役であった。

これもまた、舞台の原作翻案に関わる重要な点である。

この節は、原作『カラマーゾフの兄弟』を「今から」「ミステリーとして」読みたい方がいたら、絶対読まずに飛ばしてほしいのだが……。

※本当に飛ばす方は、もくじに戻り、次の節3.を選択してください※

墨田麝香は原作『カラマーゾフの兄弟』では、パーヴェル・スメルジャコフという名前である。
ロシア語では「スメルジャコフ」とは「ぷんぷん臭うやつ」という意味であり、浮浪者の女性から生まれた子供だ。
彼は舞台でも設定採用されていたように、次男イワンに心酔しており、しかしながらイワンの言葉を歪めて受け取り、悪事に踏み切っていく。

劇に採用されていなかった事実がある。
スメルジャコフは、原作において、
「カラマーゾフ家四人目の兄弟かもしれない」
登場人物である。

浮浪者の母親リザヴェータは、女好きのフョードル(カラマーゾフ家の父)がかつて、
「あんな女でも抱ける」
と友人らに豪語した対象でもある。
その後妊娠しているのが発見されたリザヴェータは、フョードルが相手なのだと周囲に噂された。
リザヴェータがカラマーゾフ家の屋敷に忍び込み、使用人小屋の風呂場で出産したのがパーヴェル・スメルジャコフだ。
母親は死んでしまい、スメルジャコフは使用人グレゴーリイ(舞台の翻案では呉剛力くれごうりき)に預けられ、下男となった。

カラマーゾフ家で起きた父親殺人事件において、スメルジャコフは当時意識を失っていたことから、容疑者から外される。
しかし次男イワンが怪しんで問いかけると、「自分が殺しましたよ」とあっさり自白し、その日のうちに自殺してしまうのだ。
つまり、父親殺しの罪で裁かれているドミートリーがたとえ無罪だとしても、真犯人スメルジャコフにとって、この殺人はやはり父殺しだった可能性があるのだ

これが「ミステリーとしての『カラマーゾフの兄弟』」の、非常にざっくりとした展開である。
この部分を省いてしまうとは、随分と根幹からの改変だと、一部の原作ファンは驚いたり悲しんだりするだろう。

しかし、私も惜しみつつ、そのこと自体がまた「スメルジャコフらしい」と思った。
スメルジャコフとは、「何かから排除される登場人物」でありがちだ。

研究者であり、ドストエフスキーファンとして日本版『新・カラマーゾフの兄弟』を書いたりもした亀山郁夫氏は、スメルジャコフについても論じている。
彼はスメルジャコフについて、カラマーゾフ家の血は引いておらず、社会に馴染めない自分の存在への許しを、次男イワンの思想に求めていた等の、刺激的な想像を膨らませている。
(これは作品のオーソドックスな読みというより、あくまで読み物としての想像であることに注意は必要だ)

スメルジャコフはきちんと認知された親をもたない。これだけでも父系社会において、スメルジャコフは社会的に排斥されている。
また彼は持病にてんかん発作を持っており、身体的健常者の枠からも外れていることになる。
さらに、ロシア社会ではキリスト教(ロシア正教)が中心の秩序を構築しているが、スメルジャコフは信仰をもたない。知識人としてキリスト教への懐疑に至った次男イワンの影響だが、イワン自身は完全に神を否定しているわけではなく、無神論による思考の社会的逸脱はスメルジャコフのほうが強い。

舞台にもあったセリフを思い浮かべていただけるだろう。「神がなければ全てが許される」。
天国・地獄の存在や、神の善なる秩序を信じないスメルジャコフにとって、父殺しも自殺も罪ではないというわけだ。

そんな彼に、他者もまた、全編通してほとんど寄り添いはしない。
心優しい人物として描かれるアリョーシャが、なお作中スメルジャコフを兄弟とみなして親交を結ぶ場面が見られないという点で、私個人この点を印象的に捉えている。

排斥される登場人物、スメルジャコフ。
彼は舞台の筋において、血縁関係が織りなすつながりから排除され、それゆえ大きく姿を変えた。
これにより、スメルジャコフと最も目立つ繋がりを持っていた次男イワンも、関係性の印象が異なっていたはずだ。

「スメルジャコフの役割が大きく変わっている」ということで、本節のタイトルは「不在のスメルジャコフ」とした。
しかし、不在のスメルジャコフは、それ自体、原作で提議された問題の一つと考えることもできる。

スメルジャコフファンの皆さん、どのメディアミックスを見てもなかなか原作通りに行かない彼ですが、今回はいかがだったでしょうか。

3.作者の位置-作家でもある弁護人

さて、野田秀樹舞台常連のみなさまなら恐らくお馴染みの光景があるだろう。
自身も役者として舞台に上がる、野田秀樹自身。

今作、野田秀樹は裁判になった富太郎の弁護人として、そして威蕃いわん(次男イワンの翻案)の研究所の上司として出演した。
いわば便利な物語の進行役として、時にわざとらしく場面を説明し、時に他の登場人物の言動に翻弄される。

私がこの弁護人・不知火しらぬいのセリフで、印象に残ったものがある。
(記憶に頼って書いているので、何か間違っているかもしれないが)

私の書いた筋書き通りに喋っていればいいのに、どうして余計なことを言うんだ!

劇中のセリフはできたらあとで文で確認したい

どこで発されたセリフだったかも朧げだが、確か少なくとも……
黙っているという話だったはずの生方莉奈うぶかたりな(翻案元はカテリーナ・イワーノヴナ)のことを、裁判で話してしまう、在良・富太郎らの発言を踏まえた後だったと思う。

不知火は「裁判の筋書きの作者」として、そして「劇作家」として、思い通りにならない展開に地団駄を踏む。もちろん、後者は少々観客をフフッと笑わせるための、計算づくの自作自演なのだが。

これは原作をかなり意識的に踏襲した部分だと感じる。
なぜなら、原作『カラマーゾフの兄弟』でも、裁判の筋書き作りを小説家≒作者になぞらえてしまうシーンがあるからだ

あなたは別の登場人物を作りあげた、そこのところこそが問題なのですよ!

第四部、12編、13章「思想の姦通者」(江川卓訳)

根拠の薄い想像をもって、被疑者ドミートリーの殺人ストーリーを作り上げる検事を、弁護人フェチュコーヴィチは鋭く批判する。
白いものを黒に変えてしまう不誠実な検事を「小説家」と非難するわけなのだが、弁護人も同じくであろう。
この章のタイトル「思想の姦通者」も、裁判で望んだ結果を得ることしか考えず、都合のいい思想をその都度まとう弁護人を悪とする言葉だ。

原作小説におけるこの表現に、野田秀樹が目をつけたように、私には思えた。
検事と弁護人が反転しているのも、全体を見ると意識的かもしれない。舞台『正三角関係』では、被疑者を有罪にしたいはずの検事側が、無罪の証拠を出してしまい、無罪にしたいはずの弁護人が、有罪の証拠を出してしまう場面があった。

自分が書いている「小説」というものを俯瞰して、皮肉げに裁判の描写に用いた原作者ドストエフスキー。
一方、舞台で「筋書き通りにならない」と地団駄を踏んだ野田秀樹は、何を考えてこのセリフを口にしたのか。

もちろん観客サービス的な、面白みのためでもあるだろう。
しかし、登場人物が多く、誰も彼もが自分の信念のために行動するこの劇の「カオス」に宛てると、この「メタ発言」には、ネタを超えた興味深さがある。

間違いやアドリブを修正できない、劇というリアルタイムの芸術の性質。
高まっていく会場の熱気や、あるいは不可解な反応も、劇作家には完全にはコントロールできない。
一筋縄では行かない豪華なキャスト、イレギュラーの確率が上がる回数の多い公演。

もし、完全に台本に書かれたセリフだとしても、劇という芸術は、「想定以上になる」ような不確定要素を多く含んだジャンルだ。
そして、私はそれ以上に劇全体のメッセージ性の部分でも、不知火のセリフは印象的だったと感じる。

アメリカより先に核開発を成功させようとする研究所という、裏の勤務先をもつ不知火
彼の目論見ーー彼の筋書きは、まさに舞台の長崎への原爆投下というイレギュラーによって、叶うことはない

どれだけ計画を練っても、そのための裁判を立ち上げても、うまくいかない現実という巨大なカオス。
勝利したかった日本の執念を押し潰していく、戦争というおそろしい事態。
攻撃する側される側の入れ替わり。

劇の本質は、間違いなくそこである。
最後の節として、「正三角関係」の戦争についての感想を書いてまとめとする。

4.広島で生まれたいち観客より

ロシア領事館情報通として活躍したホフラコワ/ウワサスキー夫人。
背景に退いた主人公アリョーシャ/在良。
役割を大きく変えたスメルジャコフ/墨田麝香。
錯綜する劇を作家として見守る不知火(野田秀樹)。

彼らを貫き、最後に結び合わせていくテーマ。
「正三角関係」の主題は、長崎原爆であった。

日本のとある場所、とある時代の花火師の家族にすると、入口とは全く違う出口が見えてきてしまったのだ。

野田秀樹公式予告より

舞台のラストシーン。
有罪になって脱獄し、故郷である長崎を離れようとする富太郎。

彼がかろうじて圏内を離れた途端、原爆が炸裂する。
「花火を上げ、皆が空を見上げる時は、平和な時なのだ」
という、富太郎の願いを残酷に皮肉って。

浦上天主堂の神の加護を嘲笑うように、避難していた人々が空を見上げ、斃れる。
「この天主堂は神様が守っていますから、爆撃は来ませんよね?」そう師に問い損ねた在良を薙ぎ倒して、爆風が登場人物たちを殺す。富太郎を残して。

ホフラコワ夫人は、このテーマへの伏線を伝えるためにウワサスキー夫人となった。
在良は、このテーマを際立たせるためにむごたらしく踏み躙られる信仰を司った。(まさに「在るを良しとする」の名で体現するように。)
麝香は、「神がなければ全ては許される」、つまり日本もアメリカに原爆を落とすべきであると考えた。
兄・威蕃は、自身に影響される麝香の影をうっすらと背負いながら、原爆開発に手を染めていた。

これは無論、『カラマーゾフの兄弟』のテーマとは全く違う。
野田秀樹もそれは承知の上だ。原作を分かった気で来るのが、最も心に危険な劇だったのだから。

野田秀樹のルーツは長崎にあるのだそうだ。
「父殺し」という大罪を描いた『カラマーゾフの兄弟』を、野田秀樹は「原爆投下」という全く別の大罪に置き換えて舞台上に移した。

本稿の執筆者は広島出身である。
広島は世界最初に原子爆弾が落ちた町だ。関心を持っていると、分かってしまう。劇の序盤から、物理学者になった威蕃が研究内容を在良に説明する時、在良が見る凄惨な幻覚は原爆のことなのだと。

一粒の麦もし地に落ちて死なずば、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだのならば、豊かに実を結ぶ。

ヨハネ福音書、12章14節

聖書の文句を反転させ、一つの原子爆弾は爆発により多数の命を殺す。
在良はこの予言者として、鮮烈な印象を与える。善なる心が巨悪に耐えかねて眠り、眠りながら思わず口走っているかのように。

これが果たして『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにすることで成り立っている劇なのか、私は少し悩んだままでいる。
『カラマーゾフの兄弟』が書こうとした人間の感情やロシアという国と、「正三角関係」の原爆および日本とでは、やはり性質が違いすぎるからだ。

たとえば、時代背景が違う。十九世紀ロシアと1945年日本では文明レベルも文化背景ももちろん違うし、重要なこととして宗教が違う。念のため記載するなら、原作『カラマーゾフの兄弟』のロシアで信じられているのはロシア正教だ。『正三角関係』では、在良の宗教はカトリックに変更されており、解釈や習慣などの細部が異なる。(※6)

※6
比較対象として1994/2012年の八木柊一郎の舞台は、日本向けに宗教の要素を減らして再構成した例のようだ。私は木下豊房『ドストエフスキー、その対話的世界』に感想が記されているのを読んだ。

他の例を一つ挙げよう。
『カラマーゾフの兄弟』を含むドストエフスキー作品は、比較的「加害者」の心理に詳しい作品であるという印象を受ける。
『罪と罰』など正真正銘人殺しが主人公であるし、『カラマーゾフの兄弟』の主題の一つも、無意識の死の願いは罪に問われるかどうかといった問答だ。

しかし、「原爆投下」という現実を描いてしまったとき、どうしても日本という国は圧倒的に「被害者」になる。
ドストエフスキーの作品は、全体的に、加害者と被害者の心を結果として通じ合わせがちではある(上げた中だと、アリョーシャと少年たちもそうであるかもしれない。そのリアリティや是非はさまざまな時代の読者が議論している)。
それをおいても、この差に関する違和感は観劇した私には強く残った。

とはいえ、これもまた意図かもしれない。
私は実は、原爆を扱った芸術作品で、『正三角関係』のように、日本でも原爆開発が行われていた──日本もまたこの恐怖の武器を振るう加害者になり得たことに触れているものを、初めて見た。(おすすめ作品があれば知りたい)

秘密裏の原爆開発者である威蕃に対して、在良はある場面で怒る。威蕃が真に何を行っているのかは理解できていないまま。

仕方がないって言うのは、やられた側が言うんですよ。やった側が言うことではありませんよ。

相変わらず記憶はかなり薄れているので、正解を見たら修正したい

この劇での原爆開発者の描写に、既視感を覚えた観客もゼロではないのではないか。
私は2024年日本でも公開された、映画『オッペンハイマー』を何度も重ねた。

オッペンハイマーは「乗り気じゃなかった」「止められなかったんだ」と弁明する。原爆開発を推進したアメリカ人研究者として。

他にも、史実から採用されたシーンなどに、『オッペンハイマー』との共通性を幾つも感じる劇だった。

いかに罪を問うた『カラマーゾフの兄弟』といえど、こうした、戦争における、多数の人間を対象とした罪を、同じテーマの括りに入れていいものか。
それはどちらかといえば、オッペンハイマーのような先行作品の上に描かれたと言うべきではないのか。

そんな迷いを抱きつつ、ともかく私にも、素晴らしい演者陣と優れた演出をもって、すごいものを観た、という感覚が残った。
私は見事に、野田秀樹が言うように、『カラマーゾフの兄弟』を入口に、別の出口から出てきた観客となったのだ。

とはいえ、広島県民であるからには、一つ付言しておこう。
長崎を舞台にするなら仕方のないことであるが、広島原爆は作中、正しい情報が伝わらなかったのか、「落ちていないのではないか」ということになっていた。

1945年の8月6日、確かに原爆は落ちた。それを作中で「無かった」パラレルワールドにされてたら、どんな感情でいれば、と少し心配になった。

が、もしかすると、逆の立場が、現実の長崎なのかもしれない。
どうしても、毎年のテレビ戦争特集などでは、広島原爆の方が「先に」、「大きく」取り上げられる。
長崎も、凄惨な歴史を抱えてしまったことには変わりなく、喪われた命の貴賤にも無論序列はないのに。

そして、これを本当に最後に。
「日本とアメリカの戦争を題材にするのに、なぜ2024年に、わざわざロシア文学?」
私は一瞬、観劇しながらそう考えていた。

しかし、現在、ロシアはウクライナに侵攻し、戦争中である。
ウクライナの被害地域では、まさに毎日空を見上げれば、空爆で吹き飛んだ屋根の合間に、美しい星々が見える。
そして、昼間は空を見上げない。警報が鳴り響き、爆弾が降ってくるのだから。富太郎が見た黙示録のように。
このことを野田秀樹が考えたのかどうか、確証はないが、現実として添えておく。

このnoteは長崎原爆投下時刻の8月9日11時2分に投稿する。
死者に冥福と、生者に平和への祈りを。


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