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雑感記録(95)

【未熟で稚拙な僕という存在】


最近、ある程度の時間が取れているのでnoteの更新をしたり、ひたすら本を読んだり、noteの記事を読んだりしている。こういう色々な人が書いた作品は面白い。その人なりの考え方や感性とかそういったものが前面に出ており、示唆に富んでいるものが多い。

そうして、僕はヒシヒシと感じる。僕の書く文章は果たしてどうなのだろうかと。勿論、自分のために書いている文章だから、そもそも「どう思われるか」なぞ知ったことではないのだが、noteというプラットフォームを利用している以上は少しばかし気になってしまうところではある。SNSとは難しいものだと常々思い知らされる。


ただ1つ思うのは、自分自身で書いていて愉しいことに変わりないのだが自分の書く文章を読み直した時に未熟で稚拙なことしか書いていないことに落胆してしまう。僕は僕のために文章を書いているのに、自分の文章に落胆するなんておかしな話だが実際そう感じてしまっている。

1番痛感することとしては僕は物を知らなさすぎるということと、自分でしっかりと深く深く僕の思想が醸成できていないということ。これらに尽きる。そして圧倒的読書量の少なさをまざまざと思い知らされる。

文章の良し悪し何て言うのは結局のところ、自分で読んで満足すればそれで僕はいいと思っている。ある程度の未熟さや稚拙さは容認できるところがある。言葉を書き連ねる中で、書きたいことから遠ざかって変な話を書いてみたりするが「書くってこういうもんなんだな」と自分自身を納得させている…というか文章とは本来的にはそんなもんなんじゃないのかなとも思っていたりする。

しかし、そこに現出する書き手の思考性、まあこれは言ってしまえば知識の実践によるところから得られる経験。これは大切にしなければならない点であるように思われて仕方がない。ここがなければ面白くない。というか、この層が厚ければ例え文章が下手くそであったとしても得られるものは大きいのではないかと考えている。

そうすると、読書というのは絶対的に必要になってくる。要は思考性の厚みを出すことで面白さが増す。これは「文章を書くため」という目的の為では決してない。物事を自分の眼で捉える、自分の人生に重厚さを与えるという意味において読書は非常に有用であると思われて仕方がない。


僕は従前からSNSに蔓延る「読書アカウント」なるものに喧嘩を売りまくっている。やれ「年間何冊読んでます」とかやれ「絶対読むべき本〇選」「年間読了数○○年○○冊」とか…。こういった文言を並べ立てる人が居る。僕はこういう人たちのことが大嫌いで仕方がない。無論、これで生計を立てているなら文句は言わない。仕事だから。(本当ならぶん殴ってやりたいのだが…)

何より腹立たしいことこの上ないのはその読んでいる本の殆どがビジネス書や自己啓発本の受け売りで面白くないことにある。「紹介するのはあなたでも、そこにあなたの言葉はない。」と常々感じている。

僕も偉そうなことは決して言えない。僕も本をそれなりに読んでいると自負しているが、その読書量の圧倒的少なさには毎度毎度落胆しているのだからそりゃ勿論、年間に何千冊読んでれば凄いことだ。僕も正直そんなに読めない。じっくりと時間を掛けて読むタイプだから無理だ。

そもそも、僕は何冊読んだとかどうでもいいと思っている。それを気にするのは小学生ぐらいまでで十分だ。それをいい大人が偉そうに書いて…。恥ずかしくないのかねとは思う。僕は「ああ、また馬鹿やってら」と笑うだけだ。何冊読んだで語るよりも、何を読んで何を実践し、あなたはどう考えたかを語ること。これが実際重要なのだ。というよりこれ以外に重要なことなどあるだろうか。

とここまで偉そうに書いてみた訳ではあるのだが、やはり自分に対してもこれは思う。色々と記録を残してみて気づいたが僕の思考性にはあるパターン化されたようなものが多い気がしてならない。毎度毎度同じような内容しか書いていない。(現にそうではないか!?)

これは畢竟するに、いや畢竟しなくても、僕は圧倒的に読書量が足りないということと自身でそれを深められていないということが見せつけられる。困ったものだ…。


果たしてこんな僕にこうして記録を付ける意味があるのだろうか。本を読まずして何を書くのか。仕事の愚痴か?ただの自己憐憫か?はたまたナルシズムに満ちた大衆に迎合した記事か?日々分からなくなっている。

ただ自分の中でブレていないことは、芸術から離れないとする姿勢だ。根本にはそれがあり、そこを発露として考え始めるということに関しては全くの迷いもない。そうすると、やはり様々な芸術に触れ続けなければならないことは当然の帰結である。

僕は未熟で稚拙な存在だと改めて思い知らされる。

しかしこれはこうして記録に残すことで自分自身を認識できた訳だし、そういった点ではnoteを利用するのも悪くない。気軽に書けるし、色々な方の作品を眼にする機会を多く持てるわけだし、そこはメリットが大きい。

自分の未熟さと稚拙さを認識できているだけでも僕にはまだ救いがあるはずだ。第一、例の「読書アカウント」たちは僕の勝手な推測だけれども「いいね」欲しさにただ媚び売っているようにしか思えない。ベンサムの「最大多数の最大幸福」じゃないけれど、大多数に引っ掛かればそれでいいんだ。そういう奴らは紛い物の数欲しさに頑張ってる訳だ。


僕はこれからも、読書に於いては未熟で稚拙な存在でありたい。というとおかしな話にはなるが、謙虚で居たいとは常々思う。

読むことで見えることもあるが、書くことで見えることもある。

僕は未熟で稚拙な存在であり続けるだろう。それを肝に銘じながら読むこと書くこと創作すること、そして自分の身の回りのありとあらゆることに真摯に向き合いたいと思っている。

雑駁な文章失礼。よしなに。

LIBROはいつ聞いてもいい…。










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